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「僕は、上下が逆転することで言葉そのものの力が失われてしまうというジョージ・オーウェルのヴィジョンを信奉しているので、そういうとらえ方はよくわかる。ジョージ・ブッシュが平気な顔をしてわれわれは代替エネルギーを探さなければならない時期にきていると訴える。ほんとにブッシュかよと唖然とするけど、実際に代替エネルギーを探しているわけではない。それが現実なんだ」
しかし、この映画で孤立に追いやられるのはリベラルだけではない。商談のたびに機械のように同じジョークを繰り返すエリート社員のブラッドも、"ハッカビーズ"の顔になっているキャンペーン・モデルのドーンも、奇妙な成り行きで自分と向き合わなければならなくなる。
「僕だって、自分の映画を売るために、こうやって偉そうに喋っている自分が嫌になる。危険なのは、こういうことを繰り返しているうちにその気になり、ほんとに自分が偉いと思い込むことだ。それを避けるために、嫌な人間を演じようと考えたりもする。本音を言えば、こんなことをしていたくないわけだけど、芸術というのはそういう辛辣になる瞬間を作ってくれるものでもある。たとえば、身体を動かしたり、楽器を演奏することは、それを続けるうちに惰性になるけど、もとに戻る瞬間がある。ブラッドやドーンのキャラクターがいい例だ。彼らは映画スターのように魅力的な人間だが、それが全人格ではない。人に好かれることに傾注してしまうと、次がもう何もない状態になってしまうんだ」
『ハッカビーズ』は自分探しのドラマといえるが、一般的な自分探しとは次元が違う。アルバートやトミーが救いを求めるのは、"哲学探偵"を名乗り、依頼人自身の内面を調査するベルナードとヴィヴィアンの夫婦なのだ。しかもそこに、探偵夫婦の宿敵と思われる謎のフランス人女性カテリンが現れ、迷えるアルバートを異なる世界観に導こうとする。そんな哲学探偵や謎の女性の存在には、ラッセルが学んできた東洋思想が反映されている。
「最初のきっかけは、サリンジャーの『フラニーとゾーイー』を読んだことだった。主人公たちが語ることは、宗教的なクリシェだけど、彼らは問いかけに対して真摯に向き合っている。そんな姿に心を揺さぶられ、目を見開かされる思いがした。それから大学に入ったときに、(ユマ・サーマンの父親の)ロバート・サーマンに出会った。彼はチベット仏教の権威で、その宗教学の世界にどっぷりと漬かった。映画のベルナードは、彼がモデルになっている。それから、マンハッタンにある禅センターにも四年間通った。カテリンの役は、その禅センターの老師に近い。チベットの仏教に比べると、僕の学んだ禅は、苛酷で無慈悲で、闇を受け入れていく。僕自身はといえば、生きていくためにチベット的なものも必要としているけど、刹那主義というか、その瞬間瞬間を生きる禅の考え方にいちばん近いと思う。映画のなかでカテリンが泥まみれになるように、自分がいる場所から出発し、地に足がついている感じがするんだ」
ラッセルは、そうした東洋思想をヒントに独自の世界を切り開いていく。彼にとって重要なのは常に"偶然"だ。『アメリカの災難』や『スリー・キングス』では、血の繋がった本当の両親やフセインが奪って隠した金塊を探し出すという当初の必然が、行く先々で遭遇する偶然によって変化し、偶然から新たな必然が導き出される。この『ハッカビーズ』でも、アルバートの自分探しは、彼が同じアフリカ人に何度も出会うという偶然が手がかりとなるのだ。
「なぜ偶然が繰り返されるのか自分に問いかけ、こういうことかもしれないと考え、ある種の仮定が生まれることによって、心が解放されていくのだと思う。もちろん場合によってはネガティヴな偶然というのもあり得るわけだけど、それは逆にいえば、心を閉ざしていくものを認識し、自分に目覚める機会となる。僕は、そういう心の解放が幸福に繋がると考えているんだ」
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