塩田明彦インタビュー

2004年11月 渋谷
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(初出:「キネマ旬報」2005年3月下旬号)
イニシエーションなき時代を生きる子供たちへの眼差し

 オウム真理教が地下鉄サリン事件を引き起こし、全国の教団施設に強制捜査が入ったのは95年のこと。それから10年が経とうとするいま、オウムを題材にした『カナリア』を撮った塩田監督にまず確認すべきなのは、彼の中で事件がどのように記憶され、関心の出発点になっていたのかということだろう。

「事件が起きた時、親近感というと語弊がありますが、同世代のとんでもない事件をリアルに実感できるという感じがありました。オウムの幹部はほとんど年齢が同じでしたし、当時は世田谷道場の近くに住んでいたこともあって、日常的に彼らを見ていて、彼らが配る冊子を読んでもいました。それで、事件以前に多少の関心を持っていた教団が、こういう事件を起こしたことに驚きもありましたが、一方でそういうことが起きるような気もしたんですね。当時はまだ映画監督でもなく、脚本を書いている時期だったんですが、このことについて映画の側から答えなければいけないという思いに駆られました。ただ、現実があまりにもすごすぎて、どうにも対抗しようがないというのが正直なところでした」

 塩田監督がその答えとして選択したのは、カルトの子供の物語だった。教団がテロ事件を起こし、施設に保護された12歳の光一は、新しい環境に順応することを拒み、脱走して自力で道を切り開こうとする。

「オウム関連の本を定期的に読みつつ、監督としてはまったく違う方向の作品を撮ってきて、切り口を見つけたのは、『害虫』を撮り終えた頃ですね。次の作品の題材として、ある少年の話が頭にありました。たとえば、孤児を引き取って育てる人たちがいるわけですが、親の立場に立つ人が子供を選ぶとはどういうことなのか、子供というのは選ばれるしかないのだろうか、ということを考えていて。たまたまその時に、オウムの話も時間が過ぎていくばかりだと思い、理屈はすべて忘れて、何が印象的だったか振り返ってみた。いくつか思い浮かんだうちのひとつが、サティアンから保護された子供たちの殺気だった顔でした。それが、以前テレビで観たカンボジアの辺境で戦い続けるポルポト派のドキュメント映像と結びついたんです。ポルポト派は子供まで動員して総力戦をやっていたんですが、あ、そうなんだ、サティアンの子供たちの目つきが、ポルポト派の少年たちとそっくりなのは、彼らが戦火の子供たちだからなんだと思ったんです。オウムの事件は内戦なんだと。そのへんから何か作れるかもしれないと思い、最初の少年の話とクロスしていったんです」

 塩田監督はこれまで、10代を主人公にした作品を通して、様々なかたちのイニシエーション、すなわち通過儀礼を描きだしてきた。彼は、現代における通過儀礼を、どのように考えているのだろうか。

「自分の中ではそういうことに対するこだわりがあったわけではないと思うのですが、言われてみると確かに、主人公がひとつの通過儀礼を経て変わっていくようなストーリーを語っていますね。社会が通過儀礼の規範を用意できなくなり、それぞれのやり方で、何が通過儀礼かわからないままそこを通過していかなければならない。そういう混乱に陥れられているのがいまの子供たちで、高度成長期が終わってからは、混迷の度合いがさらに深まっていると思います。『どこまでもいこう』ならまだ、僕の子供時代が反映され、高度成長期の子供の雰囲気が残ってますが、『カナリア』ではもう、通過儀礼の規範が社会から完全に失われ、それぞれに自分で見つけ出していかなければならない。そういう時代になってしまったんだとあらためて感じます」

 『カナリア』では、光一の試練の旅に由希という少女が加わることで、イニシエーションに対する視点がさらに興味深いものとなる。イニシエーションが失われた戦後社会のなかで、オウムはそれを前面に出すことで拡大していった。つまりこの映画では、光一と由希を通して、その本質はどうであれイニシエーションを重視した教団とそれを失った社会というふたつの世界が対置されていくのだ。

「そこまで言葉では明確になってなかったんですが、僕が直感的につかもうとしていたのはそういうことなんだと思います。僕の中で『害虫』という作品には達成感があり、光一だけを立てていくと、それより先に進めない感じがしたんです。光一は、何かを強要され、捨てられるわけですが、そこでさらに、他人の言葉を操る彼が、自分を問い詰めてくる言葉に答えていかなければならない状況に陥ってほしかった。そういう人間が必要だと思ったときに、中国自動車道で手錠をされたままワゴン車から落ちて死んだあの少女の顔が浮かんできたんです。顔を見ただけでも、すごくバイタリティがあって、好きになれる子だった。父親の暴力から逃げて何度も児童相談所などに行って、一方で援助交際をやってる。ああいう子が(相手役に)来ればいいと思ったんですが、やはり個人的なデータは見つからなかった。それで自分で考えていたら、ある晩、寝ている時に頭の中でその子が猛烈なスピードで喋り始めて、慌てて起きてメモをとったんです。それが由希の言葉になった。あんな体験は初めてで、その時は興奮しました」


◆プロフィール◆

塩田明彦
1961年9月11日、京都府生まれ。立教大学在学中より黒沢清、万田邦敏らと共に自主映画を製作。82年「優しい娘」が「ぴあフィルムフェスティバル」に準入選、翌年「ファララ」が入選し、広く注目を集める。大学卒業後、高橋洋らと共に同人誌「映画王」の中心メンバーとして映画評論を執筆しつつ、黒沢清作品を中心に助監督として参加。その後は企業用VP等を数多く演出する一方、監督/脚本家の故・大和屋竺のもとで脚本を学び、91年脚本家として独立。山口貴義監督『恋のたそがれ』(93)『ヤマトナデシコ』(96)では撮影・照明を担当するなど、映画製作の様々な分野で才能を発揮する。96年、オリジナルビデオ「露出狂の女」を監督。劇場公開映画デビュー作となる『月光の囁き』は、98年度「新人監督の製作活動に対する助成」(財団法人東京国際映像文化振興会運営)対象作品に選出され、ゆうばり国際冒険ファンタスティック映画祭では、審査員特別賞と南俊子賞をダブル受賞。99年公開された『どこまでもいこう』ではナント三大陸映画祭審査員特別賞を受賞。この2作品でデビューした99年度に国内の映画賞の新人賞を総なめにし、日本を代表する映画作家として期待を集める。00年、デジタルビデオ作品「ラブシネマ」シリーズ第5弾『ギプス』を監督。本作の主演である石田法嗣も出演しているドラマ「あした吹く風」(01/BS-i)では、小学生の女の子を主人公に昭和の家族をあたたかく描写してみせた。つづく『害虫』(02)は、01年第58回ヴェネチア国際映画祭「現代映画部門」正式出品、ナント三大陸映画祭「コンペティション部門」で審査員特別賞、主演女優賞(宮崎あおい)をダブル受賞する。そして、前作『黄泉がえり』(03)は、草g剛、竹内結子を主演に迎え、愛する人との再会を祈る気持ちが死んだ人を3週間だけよみがえらせるというファンタジーを上質な群像劇に仕立てあげ、興収30億を超える大ヒットを記録した。
(『カナリア』プレスより引用)

 

 

 


 塩田監督の作品で、イニシエーションと関連してもうひとつ注目すべきなのが、父親の存在だ。『月光の囁き』の拓也、『どこまでもいこう』の光一、『害虫』のサチ子など、これまでの作品では常に父親が不在だった。

「僕の映画でいつも父親がいない理由はふたつあって、ひとつは、現代社会の中で、存在することの正当性を失っているのが父親である。父親たるものかくあるべしというモデルがまったく見えない、ストーリーの中で機能を持ちえないということです。もうひとつは、僕自身が父親の立場に立ったことがないということです。『カナリア』では、父親を出さなければいけないと思っていましたが、僕が親近感を持って描きえたのは、西島(秀俊)くんが演じた伊沢というキャラクターですね。光一にとってある意味で、父親代わりになる人です」

 『カナリア』では、その伊沢以外にも、父親的な存在が登場する。というよりも、光一の前に立ちはだかる。教団は、彼と母親の絆を断ち切ろうとし、反抗すれば厳しく罰せられた。施設を脱走した彼は、妹を連れ去った祖父と対決するためにドライバーを研ぎつづける。そんな彼の試練は、神話的な物語となる。彼は、母親と妹を取り戻すために、父親的な存在と対峙し、殺そうとするのだ。

「カルト宗教というのは必ず家族と対立するんですが、確かにオウムの麻原は、父親的なものを感じさせましたね。僕には、麻原みたいな人が目の前に来たら、絶対にひれ伏すだろうという恐怖感がありました。信者のインタビューとかを読んで、親との関係がもとで入信した人たちが多かったというのも、実感としてよくわかりました。
 僕が光一の祖父を持ち出したのは、彼が僕らの親にあたる昭和一桁世代で、高度経済成長を支えてきたその親の世代に反発した僕らの世代が、麻原に引き込まれ、僕らの子供の世代として光一がいるということなんです。日本は、民族闘争ではなく、世代闘争が強く露呈してくる社会なので、家族には、何か呪いを伝承する装置のような側面があるじゃないですか。僕は、個人が自分の決断で動いているだけではなく、家族の繋がりの中にあるという感じを持っていて、それを映画に盛り込まなければと思っていたんです。たぶんそれで、大人が子供を選ぶとはどういうことなのかと考えていたことが、祖父に反映されていって、ああいうストーリーになったんですが、確かに神話的な構造になっていますね」

 『害虫』のサチ子が、自分を社会から切り離して堕ちていくことは、儀式を通して加入すべき社会が幻影であり、崩壊していることを暗黙のうちに物語っていた。『カナリア』の光一と由希は、そんな社会のなかで加入すべきものを探し、そして新たに作ろうとする。

「家族が呪いを伝承する装置になるんだったら、どこかで断ち切らなければいけない。しかし、ひとりで生き続けるのもまた大変なことで、家族の可能性を探さなければならなくなる。そこで、様々な家族の組み合せを出していこうと考え、レズビアンのカップルと子供とか、昔ながらのお婆ちゃんもいる大家族的な元信者の集団のところに入っていき、最終的に光一が祖父と向き合い、妹に対して自分が父親的な立場になるという。半分は意識して、半分は自然にそうなりました。そういう流れの中で、西島くんの伊沢が光一にする説教が、僕のメッセージだと受け取られるようなんですが、僕はそれも真実とは思っていなくて、それすら越えたところに光一が行ってほしいという思いで書いていたんです」

 確かに伊沢が何を語っても、光一の前にはまだ祖父が立ちはだかっている。そして、もし彼がひとりであれば、自滅するか、壊すだけの戦いで終わっていただろう。光一と由希はふたつの世界の狭間でせめぎあい、やがてお互いに境界を越えて神話を共有し、彼らの答えを見出していくのだ。

「僕なりの思考実験として、俗世の規範の中で生きている子供と、他人の言葉を語ることを曲げられなくなっている子供とを出会わせて、何が起こるのか見つめていった。結末は書いてみないとわからないということで、できあがった世界なんですが、この答えが唯一絶対であるといえるかどうかはわからない。というか、答えが出たからといって、問題解決にはならない。重要なのは過程であって、個別の戦いをくぐり抜けていかないと、答えというのも意味はないんだろうとは思います。
 実は僕は、神話に向かってはいけないという意識が強いんです。神話が歴史を消してしまうというか、ナチスのように、何かを正当化するためにそれを利用するということがありますよね。だから、安易に神話化をしてはいけないと思っていたんです。でも、神話を目指していたわけではなく、自分が精一杯考えてそうなったのだとしたら、そこにはやはり目指すべきものに到達したのかもしれないという喜びがありますね」


(upload:2006/07/01)
 
 
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