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「そう、この映画の中心的なテーマは、"変化"対"静止"なんだ。このマークの台詞は、かなりゆるいメタファーではあるけど、自分では回文的だと思っている。回文には、いろいろな方向に向かうのではなく、常に自分に返ってくるというような性質がある。つまり、合せ鏡のように始まりと終わりでまったく同じ性質を持っている。人間とはそういうものだと思うんだ。マークの無神論的な考え方は、実はかなり僕のそれに近い。僕の場合は彼ほど悲観的で暗くはないけれど、たとえば自由意志に関しては、幻想だと思うし、うぬぼれだとも思っている。人間が変われないということは、もし自分自身の限界や欠陥などを受け入れることができるならば、その人を解放することに繋がると思う。それが、"静止"のよい面なんだ。
この映画の冒頭で、母親はアビバに、あなたは何があってもあなただという。そして映画の最後のカットで、アビバ自身がママになるんだというとき、彼女は冒頭と同じものを求め、まったく変わっていない。ちなみに、ママ(Mom)という言葉も回文だが、もっと重要なのは、彼女のイノセンスが終始一貫して変わらず、たとえ肉体的に母親になることができないとしても、ママ・サンシャインのような母親になれるかもしれないということだ。
このアビバと対照的なのが、彼女の母親とアビバを妊娠させてしまうジュダという少年、そしてアビバが恋をするボブだ。彼らは、変わりたい、向上したいという思いを口にするが、変わることができない。それぞれに自分のアイデンティティに囚われ、変われないんだ。アビバと彼らの対比からは、"変化"対"静止"というテーマが浮き彫りになる。マークは、体重が25キロも増減しようが、性転換手術を受けようが、人間は本質的には変わらないと語る。アビバは、様々な役者によって演じられ、外見的には変化していくけど、マークの言葉を地で行くように本質は何も変わらない。そんなアビバとこの3人の対比には、変わることと変わらないことをめぐるパラドックスがあり、そこから人間が見えてくるんだ」
――あなたのこれまでの作品では、サバービアやアメリカ社会に対する独自の切り口や風刺などが、ドラマのなかでいくつかのポイントに集約されていたのに対して、この新作には、そういうポイントがあるのではなく、ドラマの至るところからリアリティが滲み出し、気づいてみるとその世界に深く引き込まれているという印象を受けるのですが、あなたは、これまでの作品と新作では表現に大きな違いがあると思いますか?
「僕は映画作家として、常に行ったことのない場所に行きたいと思っているし、この新作にはとても誇りを持っているけど、表現をどうとらえるかは、観る人たちの解釈に委ねたいと思う。ひとついえることがあるとすれば、僕は自分の映画をいつも哀しいコメディというように表現するんだけど、そういう意味では、この新作はこれまでのなかで最も哀しいコメディだね」
――あなたは先ほど、アビバが、「たとえ肉体的に母親になることができないとしても」と語っていましたが、私は、映画のラストについて異なる解釈をしていました。アビバと再会したジュダはオットー(Otto)という回文の名前に改名していて、回文と回文が交わることによって、アビバが逆戻りしていく。ということは、彼女は失った子宮を取り戻し、それが極めつけの回文となると考えたわけです。この回文というアイデアは、最初から頭にあったことなのでしょうか?
「僕は最初から明確な方向性を持って書いていくタイプではない。アイデアやイメージ、映像などが、頭のなかをぼんやりと漂っていて、これは何についての物語だろうと考えていくうちに、だんだんと発見していく。それで、書き上げたときに、ああ、こういう物語だったのかと思うんだけど、撮影に入ってしまうと、またまったく違った物語に変わっていく。編集も同じだ。いつもそういう傾向があるんだけど、編集の段階でかなりの部分を削ぎ落としてしまい、まったく変わる。だから、なるほどこういうふうに繋がっているのかということをいまだに発見している状態なんだ。あなたのラストのとらえ方は、非常に美しい解釈だと思うし、その視点にはある種の真実があると思う。だから、自分のなかでロジックが成り立っているのであれば、そのように書いてもらいたい。僕自身ですら、作品のすべてを理解しているとはとてもいえないんだから」
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