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柳町光男監督にとって10年振りの新作となる『カミュなんて知らない』は、ふたつの関心(あるいは経験)が映画の出発点となっている。ひとつは彼が、早稲田大学で3年間、<映像ワークショップ>という講義を行ったことだ。その講義には、映画の製作も含まれている。
「僕も普通の大人と同じように、大学で教えるまでは、若者と付き合うことはなかったわけです。いまの若者は、何も考えてないとか、無反応で幽霊みたいに生きてるとか言われてますよね。実際、大学で学生と接するようになったら、確かに最初はそうだったんですけど、映画を作るということで、監督とか撮影などの役割を与えると、だんだん元気になってくる。責任を持ったり、意見を言うようになる。僕らの学生時代のような雰囲気が出てくる。それで、こいつらを主役に据えたら、けっこう面白い青春映画ができるんじゃないかな、というのがまずありましたね」
もうひとつの関心は、2000年に愛知県豊川市で17歳の少年が起こした主婦殺害事件だ。主人公の学生たちが作る映画の題材はこの事件であり、『タイクツな殺人者』というタイトルは、事件を扱ったノンフィクション『退屈な殺人者』からとられている。
「あの事件は、僕にはとてもショッキングでしたね。だから気になって、それに関する本も読んだ。「人を殺したらどうなるか実験してみたかった」というストレートな言葉は、カミュの『異邦人』のムルソーが、太陽がまぶしかったから人を殺したと語るのに匹敵する、というか彼はそれをやってしまった。この少年は、酒鬼薔薇聖斗や西鉄バスジャックの少年と同じ82年生まれで、僕が大学で接した学生たちも82年前後に生まれた同世代なんですね。彼らは、この日本という国のなかで、同じ時代や社会環境を生きてきた。なのに一方は殺人に走ってしまった。それで僕は、彼らが何を共有し、どこが違うのかということを、ずっと気にかけてきたんです」
しかし、この新作でまず印象に残るのは、これまでの柳町作品からは想像もつかない遊びが散りばめられていることだ。監督の松川の恋人ユカリは、松川に執拗につきまとい、陰でアデルと呼ばれている。元映画監督で指導教授の中條は、陰でアッシェンバッハと呼ばれている。彼は美しい女子大生レイを見つめ、想いをつのらせていく。ではなぜ『アデルの恋の物語』と『ベニスに死す』なのか。
「なぜそれが思い浮かんだかは、わかりませんよ、人に解釈してもらわないと。引用しようと思えば他にも腐るほどあるなかで、僕の引き出しからポンと出ただけで。世紀末的なものとか、一方通行の愛とかね、そういうものに対する関心と、いまの時代の若者たちを観察して見えてくるものが、フィットしたということではないかと思うんですけど」
この2作品には、実に興味深い共通点がある。まず、ハリファックスとベニスという閉ざされた空間が、ドラマにとって不可欠の要素となっている。この映画の舞台となるキャンパスは、そんな映画的な記憶に二重三重に取り巻かれ、主人公たちは、閉ざされた空間のなかで同世代の殺人者と向き合うことを余儀なくされる。しかも皮肉なことに、彼らは、この2作品と同じように、実在の人物を映画にしようとしているにもかかわらず、その少年は容易には画にならない。柳町監督は、82年生まれの殺人者のなかでも、特にこの少年に関心を持つ理由をこう語る。
「酒鬼薔薇についても、いろいろ読んでますが、彼には性的な問題がある。だから関心がないというわけではないけど、やはりムルソーに匹敵するこの少年の言葉の方が強烈でしたよ。バスジャックの少年は、病院を出たり入ったりしていて、明らかに精神を病んでいた。でもこの少年の場合は、まさに一見普通ですよね。学校の成績もよくて、国立大学に行くだろうと言われていたし」
要するにこの少年は、「人を殺したらどうなるか実験してみたかった」という動機で人を殺した事実を除けば、決して特殊な人間ではなく普通の高校生であり、ドラマになる要素がない。だから監督の松川は、事実を無視し、リハーサルを通して、殺人者らしい人物、映画らしいドラマを作り上げようとする。しかしそんな彼は、先述した2作品のパロディのなかで失墜していく。そこで筆者が注目したいのが、中條教授が図書館から借りているメルロ=ポンティの『見えるものと見えないもの』のことだ。松川や中條は、見えるものに囚われ、見えないものに足をすくわれる。この映画では、見えるものと見えないものをめぐって、人物たちが巧妙に配置されているのだ。
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