アイルランドの厳しい生活と家族の重さ
――『アンジェラの灰』、『The Bucher Boy』、『Down by the River』をめぐって


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(初出:「SWITCH」1997年12月号、若干の加筆)
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 最近読んだ洋書のなかで、amazon.comの読者レビューを眺めていてちょっと驚いたのが、ニューヨークに住む元教師フランク・マコートが、とてつもなく悲惨なアイルランドの少年時代の体験を綴った『Angela’s Ashes』(78年に日本語版『アンジェラの灰』が出た)だ。そこにはものすごい数の投稿が並んでいた。これが本年度(1997年)のピュリッツァ賞を受賞した話題作であるとはいえ、内容からするとこの数は意外だった。

 そのなかには、最低の点数をつけて、「ただでさえテレビなどのメディアがネガティヴなイメージを撒き散らしているというのに、読むことが苦痛でしかないようなこの本がなぜもてはやされるのかわからない」とか「こんな悲惨な本には出会ったことがない、同じカトリックとはいえ両親がイタリア人であったことをこれほど有り難く思ったことはない」というような否定的な感想もないではない。が、ほとんどは熱狂的に支持する投稿だった。

 そこで今回は、この本を出発点として、少年少女の眼差しを通して浮かび上がってくるアイルランドの家庭の悲劇に注目してみることにした。取り上げる三つの作品は、共通する家庭の状況から異なる世界やイメージが広がっていく。

 『Angela’s Ashes』では、大恐慌から第二次大戦にかけての時代の著者フランクとその家族の体験が綴られていく。

 フランクの父親は旧IRA(後に分裂して主流派となりテロ活動を展開するいわゆる‘暫定派’IRAとは違う)と行動をともにし、イギリスとアイルランド双方とトラブルを引き起こしてしてアメリカに渡る。母親はアイルランド南部にある街リメリックのスラムに生まれたが、祖母からアメリカ行きを勧められて大恐慌が始まったその時にニューヨークにたどり着く。そこでふたりは出会い、長男のフランクに続いて次々と子供ができる。この家族はそれから何年間も飲んだくれの父親に散々苦労させられることになる。

 父親は仕事にはつくものの給金は家に持ってくる前にみんな飲んでしまう。酔って帰ってきた彼は、フランクに故郷の北部アルスター地方のために戦って死んだ伝説の英雄クーフリンの物語を語り、アイルランドのために死ねる人間になれと繰り返す。苦しい生活のなかで、初めて誕生した娘が生後間もなく死亡したとき、母親はその悲しみを忘れたい一心から祖国に戻る決意をし、4歳のフランクと3歳と1歳の双子の3人の弟たちは両親とアイルランドに旅立つ。

 
《データ》
“Angela’s Ashes”by Frank McCourt●
(flamingo)
“The Butcher Boy”by Patrick McCabe●
(Delta)
“Down by the River”by Edna O’Brien●
(Farrar Straus & Giroux)
 
『アンジェラの灰』 フランク・マコート●
土屋政雄訳(新潮社、1998年)
 

 しかしそこにはさらに厳しい生活が待っている。一家は母親の祖母や親戚を頼って南部のリメリックに落ち着くが、閉鎖的でカトリック信仰を一番の誇りとする共同体のなかでは、北のよそ者である父親は敬遠され、仕事につくこともままならない。しかしそれでも彼は失業手当まで飲んでしまう。

 仕方なく一家は不潔きわまりない長屋で生活を始める。そこには共同トイレがひとつあるだけで、しかもそれが彼らの家の入り口にある。雨の多いリメリックはいつもじめじめとしている上に近くの川が頻繁に増水して、一階の炊事場を水浸しにし、様々な病気を引き起こす。

 そこでまず双子の弟たちのひとりが病死し、半年後にはもうひとりもその後を追う。後にフランクも腸チフスで死にかけたり失明の危機にさらされたりするが、何とか生き延びる。その一方では新しい弟も生まれるが、北の祖父が送ったお祝いのお金ですら父親が飲んでしまう。

 母親は福祉局に泣きついたり、商店やパブでミルクや食べ物を分けてもらい何とかしのいでいこうと苦闘するが、しまいには街頭で物乞いまでせざるをえなくなる。フランクと次男の弟も、金持ちの家を訪ね歩いたり、パブで客の食べ残しをかき集めて奮闘する。

 確かに悲惨な話ではあるが、著者の文章には悲しみや同情を誘うような表現は一切なく、子供心にひとつひとつの体験がどのように映ったのか細部に至るまで実に率直に生き生きと描かれ、ユーモアに満ちた物語にもなっている。

 フランクが洗礼を受けて初めて懺悔をしたとき、彼は、英雄クーフリンが彼に憧れる女たちに小便の競争をさせ、一番長かった女を妻にしたという罪深い話を友人から聞いてしまったと告白すると、神父は必死で笑いをこらえる。

 リメリックをアイリッシュ・カトリックの総本山のように誇る教師から、もしキリストがこの街に住んでいたらというテーマの作文を書くように命じられたフランクは、キリストがこの街の雨と湿気に苦しめられる妙に説得力のある作文を提出して教師を驚かせる。

 やがてフランクは、一刻も早く一人前の男になりたいと思うようになる。それは家族を助けたいという気持ちもあるが、それよりもアメリカに渡って自由になりたいというのが本音だ。どんな手段を使ってもその希望を叶えたい彼は、郵便配達をする傍らで、後ろめたさを噛み締めながらも高利貸の夫人に協力して、自分と同じ苦しみを味わう隣人たちに返済の催促をする脅迫まがいの手紙を書いたり、プロテスタント系新聞の配布を手伝うなどして、金を貯めていく。

 そして読者は、フランクがアメリカに向かう船のなかで自由な世界を垣間見た瞬間に訪れる異様な解放感に、どれほど深く物語に引き込まれていたかを思い知らされることになるのだ。===>2ページに続く

 
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