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この小説の主人公は、18歳のときに共産党が掲げる祖国解放の理想に共鳴して人民軍に入り、以来10年間を前線で戦いつづけてきた兵士クアン。彼は、幼なじみが戦場で精神に異常をきたし、後方で拘留されていることを知り、親友でもある上官の協力で前線を離れ、
その幼なじみと故郷の村、過去に向かって旅立つ。その旅からは戦場の様々なドラマが浮かび上がってくる。
たったひとりでくる日もくる日も兵士の遺体を集め、葬ることに追われる女性志願兵は、主人公との一夜に慰めを求めるが、故郷に想いつづける娘がいる彼は、心を苛まれながらも米軍の化学兵器で不能になってしまったという芝居をうつ。補給部隊を指揮する友人と合流した彼は、
部隊が任務の合間に後方に送る棺桶を作っていることを知る。しかも彼らは、安全のためにその棺桶のなかで夜を過ごし、主人公は悪夢にうなされる。著者は、そんなふうにあるときは詩的に、あるときは生々しく戦場を描きだしていく。
そういう意味では、これは北の視点で戦争を見直す作品ともいえるが、決してそれだけの物語ではない。たとえば、主人公は、共産党のインテリのエリート幹部が、列車のなかで、現実と遊離したイデオロギーを振りかざし、大衆を見下しているのを目の当たりにする。
また、彼が想いつづけた娘が、村を仕切る党幹部の慰み物にされ、子供を身ごもっていることを知る。そうした出来事のなかで、主人公の理想は揺らいでいく。そして、必ずしも戦後に変わったとはいえないインテリ主導の党の体質や形骸化したイデオロギーが残したもののことを考えるならば、
この小説は、現代のヴェトナムに理想とは何かを厳しく問いかける作品ともなるのである。
それから、筆者がこの二年くらいのあいだに読んだ小説のなかで最も鮮烈な印象を残し、深い感銘を受けたのが、バオ・ニンの『The Sorrow of War(邦題:戦争の悲しみ/愛は戦いの彼方へ)』だ。著者は、52年ハノイ生まれで、やはり激戦地で戦った経験を背負っている。
69年に彼と同じ部隊で戦地に向かった500人のなかで、生き残ったのはたったの10人だという。この小説はそんな彼の処女長編であり、英訳が94年に出版されて絶賛を浴び、版を重ねている。題名を直訳すると?戦争の悲しみ?となるこの小説は、一見すると戦争の悲劇をリアリズムで描く作品のように思われそうだが、
実際にはまったく異質な物語で、読者を引き込む奥深い魅力を持っている。
この物語は、必ずしもナラティヴな展開ではなく、主人公キエンの戦前、戦中、戦後の記憶の断片が交錯するように綴られていく。アメリカがヴェトナムに本格的に介入したとき、彼は17歳で、サイゴンが解放されたときには28歳になっていた。その後彼は、兵士としての最後の義務だと思い、
戦死者たちの遺骨や遺品を収拾する任務につき、結局、戦争で人生の14年間を失った。そんな彼の断片的な物語は、この戦後の任務から始まる。彼は、戦争の激戦地となり、死者たちの叫びが聞こえるというジャングルを彷徨い、自分のなかにわき上がる奇妙な力を感じる。
そして、任務が終わってからも、死者たちの声を聞き、夢のなかで対話するようになる。
それから間もなく、この主人公が小説を書こうとしていることがわかってくる。内なる力は、その出発点だったのだ。彼が小説を書く決心をするのは、戦後何年もたってから、偶然かつて戦闘訓練を受けた町を訪れたときのことだった。彼と仲間たちの母親がわりになってくれた夫人はすでに他界していたが、
そこには夫人の娘がひとりで暮らしている。この娘は、夫を戦争で、子供を病気で失いながらも、過去に縛られるようにそこに暮らしている。実は彼女にとって主人公は初恋の人で、彼をずっと待ちつづけていたのだ。主人公は、そんな彼女の気持ちを完全に受け入れることはできないが、小説を書きだすことで、様々な出来事がよみがえってくる。
この物語には、言葉で語ろうとするとひどく感傷的な印象を与えるようなエピソードがたくさんでてくる。それはたとえば、彼がとても初心な若者であったことを物語る失敗談であったり、不遇の画家で、戦争の前に自分の絵をすべて焼き払った父親の記憶であったり、
クライマックスを鮮烈なものにする将来を誓った恋人との悲しい出来事などだ。しかし、この著者の簡潔で見事に抑制された文章には、そんな印象が入り込む余地は微塵もない。それは明らかに書くこととの厳しい葛藤から導かれている。
主人公は原稿が行き詰まると、同じアパートに暮らす口のきけない女のところに行き、ひとりで延々と話しつづける。彼女は彼が、自分のことを別の女性と重ねあわせ、自分の存在には何の意味もないことを知りつつも、彼を待ちつづける。そればかりか、主人公がどこかに姿を消してしまったときには、彼の部屋に行き、
散らばった原稿をかき集め、大切に預かっているのだ。そして、この物語の最後には主人公が姿を消し、彼とは違うもうひとりの私が登場し、その女性から彼の原稿を渡される。その私は、ばらばらな物語の断片のなかに、深い悲しみに包まれながらも若く純粋な日々があることに、強くこころを動かされる。
つまり、この小説は、戦争で大切な時間を失った著者バオ・ニンが、もうひとりの自分である主人公を通して、自分が何者であるのかをぎりぎりのところまで突き詰め、混乱と苦痛のなかで書きつづけることによって、作家となるまでが浮き彫りにされているのだ。
そこでもう一冊、どうしてもこの小説と対比してみたくなるのが、アメリカの作家ティム・オブライエンの『In the Lake of the Woods(邦題:失踪)』である。オブライエンは、ヴェトナム体験を出発点に様々な作品を書いてきた作家だが、この作品では、ヴェトナム以後が大きなテーマになっている。
邦訳が出るので内容の詳しい紹介は省くが、この小説では、ヴェトナムの戦場で起こった悲劇を記憶から消し去って生きてきた主人公の葛藤と、深い愛情ゆえに彼と運命をともにしようとする妻との絆が、様々な記憶の断片や周囲の証言、他の著作からの引用なども交えながら浮き彫りにされていく。
そしてこの小説では、物語が終盤に近づくに従って、この主人公について、注のかたちで著者自身の考察がクローズアップされていくのである。つまり、オブライエンもまた、もうひとりの自分である主人公を通して、遠ざかるヴェトナムの記憶と自分が書くことの意味を厳しく問いなおしているのだ。 その結果として筆者がとても印象的だったのは、どちらの小説も、主人公の男女の絆は、現実の世界のなかで失われる宿命にあるにもかかわらず、そうした現実を超越する空間で永遠に続くことを暗示する恋愛小説になっていることなのだ。そんな暗示は、ありきたりな小説であれば、間違いなくただの逃避か感傷ととらえられるだろう。 それが不思議なほど力強く前向きに感じられるのは、戦争体験を ”いま” 書くことの意味をとことんまで突き詰めたところから生まれる、小説の根源的な強度のなせるわざとしか言いようがないのだ。
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