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ということで、2冊のノンフィクションは、そんなふうにいまだに人々の脳裏を去りがたい事件の真相に迫っているのだが、その内容はいろいろな意味で実に対照的である。
『Severed(邦題:切断)』では、被害者エリザベスの生い立ちから事件に至る足跡、そして捜査の顛末が、多くの証言をもとに丹念に綴られ、最後に、当時犯人に最も近いと思われた男(故人)に焦点があてられる。その男は、証拠不十分で逮捕されることはなかったが、本書では、
ある情報屋に対して間接的に非常に説得力のあるダリア殺しの告白をしていたことが明らかにされている。
一方、『Daddy Was 〜』では、最初に犯人に関するひとつの結論が提示される。父親(62年没)から受けつづけた性的虐待によって長いあいだ記憶を失っていた著者ジャニスは、記憶再生療法によって過去を取り戻す。その結果、驚くべき事実が明らかになる。彼女は、10歳のときに、父親がダリアを殺害するのを目撃し、
彼はそれ以外に何人も人を殺しているというのだ。もちろん、そんな証言だけなら真に受けるは難しいところだが、本書で実際に文章を書いているのは、共著のかたちで名前を連ねている犯罪ジャーナリスト、マイクル・ニュートンで、彼はジャニスの証言と事件を照合しながら物語を綴っていく。
すると確かに、この親子が引っ越す先々では、いまだ未解決の殺人事件があり、殺害の状況にある程度の類似点を見ることもできるのである。しかも彼はロス市警に対して、これまでの捜査資料の公開と事件の再捜査を強く要求してもいるのだ。
この2冊からはまったく違う犯人像が浮かんでくるわけだが、ここで筆者が注目したいのは、犯人や真相よりも、それぞれにダリアの存在がどのようにとらえられているかということだ。というのも、彼女については、数多くの証言が寄せられているが、それが一向に焦点を結ばず、追えば追うほど実体が曖昧になっていくのである。
だから、小説であれノンフィクションであれ、この事件について書くということは、"ブラック・ダリアとは何者だったのか?"という問いに答えるに等しく、それぞれの作家が、ダリア像を見極めたときに、おのずと真相が決まるといっても過言ではない。
『Severed』には、この事件に関する何枚かの写真が掲載されているが、そのなかの一枚が、ダリア像を追うことの意味を考えさせてくれる。それは、死体の発見現場を引いたカメラで収めた写真で、手前に本当にマネキンのような死体があり、その向こうには雑草が疎らにはえた殺伐とした空き地が広がり、
遠くには、電柱と住宅地らしき建物が見える。そこには、簡単に悪夢などとはいえないような異様な空漠感が漂っている。ダリア像を追うということは、生前の曖昧なダリアと現実との接点を完全に欠いたようなこの情景を結び付けることでもある。
ジョン・グレゴリー・ダンやジェイムズ・エルロイの小説では、事件の捜査を通して腐敗したロスの裏側の世界が浮き彫りにされる一方で、警官と聖職者の兄弟、そして、英雄と密告者という対照的なイメージを背負ったふたりの警官の運命を完全に狂わせていく。ふたりの作家はそんなふうに社会と個人の内面に深く分け入っていくのだが、
そこには、ダリアに憑かれ、この写真の異様な空漠感を埋めようとする彼らの暗く激しい情念を見ることができる。エルロイの「ブラック・ダリア」で物語の語り手であるロス市警巡査は、ダリアについて「私がそのすべてを解き明かさなければならない謎の女」だと思い詰め、深みにはまっていく。『Severed』には、
事務所のデスクに向かう著者ギルモアの写真も収められているが、彼の背景の壁は、ダリアの写真で埋めつくされ、これと同じような思いをのぞかせている。
それでは、この2冊のノンフィクションからはどんなダリア像が浮かび上がってくるのかといえば、そこには決定的な違いがある。ギルモアの調査によれば、ダリアの検屍の結果、彼女のヴァギナは未成熟で、性交が不可能であることがわかった。また、彼女の下腹部には縦に深い傷が残されていたが、犯人はそれで性交して、
洗浄し、彼女の秘密を暗示するために?不毛?≠?思わせる空き地に死体を放置したのではないかという専門家の分析も明らかにされている。警察は、この事実を犯人が知る特別な情報として公表を控えることにしたという。ちなみに、エルロイは、ダリアのことを不妊症の反動でセックスに駆り立てられる女として描いている。
一方、『Daddy Was 〜』では、ジャニスの記憶によれば、ダリアは父親の子供を身ごもり、彼に結婚を迫っていたという。しかも、彼女は、自宅のガレージで、ダリアが流産するのを目撃したというのである。
そこで気になってくるのが、ジャニスの受けた記憶再生療法である。<サタニズムと記憶再生療法>で筆者は、『Making Monsters』というノンフィクションを取り上げ、この療法では患者とセラピストの先入観が、偽の記憶を作ってしまう実態に注目したが、本書には、ジャニスの記憶と事件の結びつきについて興味深い記述がある。
ジャニスが失われた記憶を取り戻していくのは、90年を過ぎたあたりからのことだが、まず、それよりも10年近く前にこんなエピソードがあった。彼女は、ジョン・グレゴリー・ダンの小説は読んだ記憶がないが、それを映画化した「告白」は話題作であったため公開当時(81年)すぐに観たという。しかし、
映画のなかで殺人事件と結びつきのある場面は、これまでの習慣ですぐに頭から締めだしてしまい、結果的には断片的なごく一部の場面しか覚えていなかった。ところが、それと時期を同じくして、彼女は不安感やストレスに悩まされれ、突然泣きだしたりすることがあったというのである。
そしてさらに興味深いのが、彼女の記憶が蘇るきっかけである。それは、エルロイの「ブラック・ダリア」なのだ。彼女は、妹からそのペーパーバックを借り、表紙のダリアのイラストに興味をおぼえ、作品を読みだした。そして、ダリアの無惨な死体が発見される場面まで読み進んだところで突然、
父親が彼女を殺したのではないかという疑惑がもたげてきたというのだ。彼女のセラピストは、その記憶について太鼓判を押しているということだが、筆者は少なくともダリア殺しについては、これだけの先入観が入ってしまえば、本当の記憶と明確に分けることは不可能なのではないかと思う。
それでは、小説のなかで不妊症として描かれていたダリアが、なぜジャニスの記憶のなかで妊娠することになったのだろうか。実は彼女は、父親の子供を産まされたうえに、その子供の命も奪われてしまったとも語っているのだ。そこで、もし彼女が、ダリアの物語を通して自分を語っていたとしたら…。
そんなふうに考えると、いまさらながらにブラック・ダリア事件の闇の深さを思い知らされる気がするのである。
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