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『The Culture of Desire』でも、フィクションではなく現実の問題として、このことが重要なテーマのひとつになっている。このテーマを扱う第6章では、まず、家族をめぐるゲイとストレートの深い溝を示す実例が挙げられる。それはたとえば、ゲイであるがゆえに、兄弟から疎外されたり、ユダヤ人としてのアイデンティティを捨て去らなければならなかったり、あるいは、キューバ系のカップルで、
両親には何とか受け入れられたものの、コミュニティのなかで手をつないで歩こうものなら殺されることになるかもしれないというような人々の体験である。
それでは、アメリカン・ファミリーの現状はどうなっているのか。著者のブラウニングは、90年の時点で、70年以降に結婚した夫婦のうち、半分以上が別居か離婚し、子供たちの4分の1近くが片親の生活を送っているという統計を引用し、血縁に基づく家族は、伝統的な意味を確実に失いつつあるという。
著者は、ひとつの例として彼の旧友の告白を引用する。結婚して25年以上になるその友人は、家庭と仕事で深刻な悩みを抱えていた時期があったが、彼には、家族以外にはそれを打ち明けられるような親しい友人がひとりもいなかったという。要するに、核家族化のなかで、仕事や子育てなど両親の負担が大きくなり、気付いたときには彼の人間関係は、同僚と配偶者、子供の三つのカテゴリーに完全に分化し、
友情関係といったものを育む余裕がまったくなくなっていたということだ。これは日本でも同じことだろう。
そこで著者は、ゲイのあいだにある友情関係というものの許容範囲の広さや柔軟さに着目する。簡単に言えば、既成の家族制度のなかでは、男にとって友人=同僚になりがちだが、ゲイの意識では友人=家族に近く、彼らの家族に対する模索からは、ゲイ、ストレートを問わず、新しい関係や役割の糸口が見えてくるのではないかということだ。 これは、新しい家族の絆を模索するゲイ・フィクションの現実的で社会的な背景といっていいだろう。
先ほど、アンソロジー『Waves』の前書きで、編者のイーサン・モーデンが、ゲイ・フィクションの変遷を三つの波に分類していると書いた。具体的には、第一の波は、孤立が強固なアイデンティティに結びつき、自分たちを特異な存在とみなしていたエドマンド・ホワイトやアンドリュー・ホラーランらを指す。これに対して第二の波の作家たちは、自己のアイデンティティを探ると同時に、ゲイをあくまで ”普通” の人々として描く。
そしてこれが第三の波になると、普通と特異の立場が逆転し、ゲイの視点からストレートの世界を異化していくという。
筆者が『サバービアの憂鬱』で取り上げたレーヴィットやカニンガム、そして、ブラウニングが『The Culture of Desire』の6章で提示したヴィジョンなどは、この分類に従えば、第二の波に属していることになる。それでは、第三の波からは具体的に、どんな世界と物語が見えてくるのだろうか。たとえば、『Waves』の巻頭を飾るジョン・ウィアーの短編「ヘテロの国のホモ(Homo
in Heteroland)」などには、そうした第三の波の視点を垣間見ることができる。
この短編では、ゲイである主人公と彼の兄の一家をめぐる物語を通して、ゲイとアメリカン・ファミリーの関係が風刺的に描かれる。兄の一家は住み替えを計画していて、夏の休暇を利用してアトランタの郊外住宅地に家を探しにいく。物語は、この一家に同行した弟の視点で綴られる。彼の目から見ると、兄の子供たちは、ヘテロの秘密兵器ということになる。彼らは当然のようにボーイ・スカウトに入り、ホモ嫌いになるように教育されるからだ。
主人公としては、それに対抗してジェンダーというテーマを持ち出したくて仕方がないが、そうするわけにもいかず歯がゆい思いをしている。目的地についた彼は、子供のお守りをまかされ、散歩をしているうちに、高速道路にそって周縁へとものすごい勢いで膨張する郊外住宅地の光景を目の当たりにする。まさに彼は、”ヘテロの国のホモ” であり、この短編ではそんなふうにして平凡な日常が異化されていくのだ。
しかし、『The Culture of Desire』でも言及されていたように、ヘテロの国の構成要素であるアメリカン・ファミリーは、だいぶ基盤がぐらつきつつある。そして、そんな現実を、ゲイの視点から過剰なスタイルで浮き彫りにするのが、デニス・クーパーといえる。『Waves』の前書きでモーデンも、第三の波のなかで異色の才能としてクーパーの名前を上げている。そのクーパーについては、日本でもすでに『クローサー』や『フリスク』が翻訳され、
よく知られる存在となっている。但し、ゲイの作家とはいっても、セックスと暴力、ドラッグ、死に満ちた彼の世界は、一見したところでは、この原稿の文脈にはそぐわないように思われるかもしれない。
しかし、彼の作品は、西海岸の荒廃した郊外住宅地の世界に漂う空気をリアルにとらえていると思う。アメリカン・ファミリーとゲイが対立するには、アメリカン・ファミリーにもそれなりの活力があることが前提となる。しかし、クーパーの世界では、アメリカン・ファミリーはすでに形骸化、空洞化しつつあり、若いゲイの世代も、奇妙なかたちでそんな日常に浸透している。具体的には、物語の背景が見るからに薄っぺらで、パパやママの存在もパロディのように陳腐であり、
そこに、ホラー映画やロック、ポルノ雑誌から浮かび上がるイメージと同じような感触で、主人公たちのセクシュアリティがほとばしる。だから対立するような境界もなく、混沌とした状況を作り上げているのだ。
クーパーの新作である『Try』からは、対立する境界すらない世界のなかでうごめく奇妙な家族が見えてくる。この長編の主人公ジギーは、性的虐待を専門に扱うミニコミ誌「アイ・アポロジャイズ」を作っているティーンエイジャーで、養子の彼には、両親として、ブライスとロジャーというふたりのゲイの父親がいる。しかし、この家族もすでに崩壊し、ジギーは、片親と暮らしている。一緒に暮らしている方の父親ブライスは、ジギーが10歳の頃から、
彼に性的虐待を加えるようになり、ロックの評論家をしているもうひとりの父親ロジャーは、ニューヨークに引っ越し、ジギーにラヴレターを送ってくる。ジギーの義理の叔父であるケンは、10代前半の美少年を連れてきて、自分とのセックスをビデオに撮り、ポルノとして売りさばいている。そしてジギーは、ストレートの親友カルハウンに片思いをしているが、そのカルハウンは、小説を書きながら、ヤクに溺れている。
こんなふうに要約してみると、どうしようもなく末期的な、つかみどころのない作品に思われるかもしれない。しかしたとえば、ジギーが、パンク・バンド、ハスカー・ドゥの熱烈なファンであったり、叔父のケンが連れてくる13歳の少年が、デス・メタルのバンド、スレイヤーのファンで、サタニズムにどっぷりつかっているというような、時代と環境をとらえたディテールが、物語に散りばめられ、リアリティを漂わせる。
というように、進化するゲイ・フィクションは、ゲイの世界ばかりを描いているわけではなく、アメリカン・ファミリーや日常をめぐる様々な現実も反映されているのである。
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