90年代のサバービアと家族を対照的な視点から掘り下げる
――カニンガムの『Flesh and Blood』とホームズの『The End of Alice』をめぐって


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(初出:「SWITCH」1996年8月号、Dr. Fact of Life18、若干の加筆)


 

 家族を描くアメリカの作家はたくさんいるが、ここではそのなかでも90年代を代表するといえるマイケル・カニンガムA・M・ホームズの新作に注目してみたい。ふたりの作家の作風にはかなり距離があるが、これまでの作品の内容を対比してみるとなかなか興味深い。

■■マイケル・カニンガム『A Home at the End of the World』■■

 カニンガムのデビュー作は90年の『この世の果ての家(A Home at the End of the World)』だ。この長編は、発表当時は新しいゲイ・フィクションとして注目されたが、その内容には、ゲイという枠を超えた家族そのものに対する深いこだわりを見ることができる。

 この作品では、これまでとは違う家族のかたちを模索する三人の男女の姿が描かれている。物語は三部で構成され、クリーブランドの郊外住宅地、大都会ニューヨーク、そしてロックの伝説が息づき、牧歌的な雰囲気が漂うウッドストックというそれぞれの舞台が、主人公たちの模索の重要な背景となる。

 ふたりの若者は、一部の郊外住宅地で家族の崩壊を体験すると同時にゲイのアイデンティティに目覚め、二部では、彼らに十才以上年上の女性が加わり、三人は、それぞれに過去を引きずりながらも両親とは違う絆を捜し求める。そして三部では、三人にさらに彼らの赤ん坊が加わり新しい家族のかたちが出来上がっていく。最近では、男女三人の共同生活といった設定はそれほど珍しいものではないが、この小説の繊細な表現や切実さには、心に染みるような奥深さがあった。

■■A・M・ホームズ『Jack』『The Safety of Objects』■■

 一方、女性作家のホームズも89年のデビュー長編『Jack』にゲイの要素を盛り込み、郊外住宅地に暮らす十代前半の少年ジャックの成長をユーモラスに描いている。ジャックの両親は離婚し、父親が家を出ていく。間もなく父親は自分がゲイで、男と暮らしていることを息子に告白する。

 ジャックは、おかまが父親であるはずがないと思い悩み、親友の普通の家庭を羨望の眼差しで見るようになる。ところがある日、彼は、そんな親友の両親のあいだに深い亀裂があることを知り、自分が父親や母親のジャックではなく、ジャックという個人であることに目覚め、成長を遂げる。

 ホームズの場合は、このデビュー作と最新作のあいだに短編集と二作目の長編を発表しているが、こちらも個性が際立っている。90年の短編集『The Safety of Objects』は、やはり舞台がすべて郊外住宅地で、周囲の目に怯えつつもドラッグに溺れていく夫婦、妹のバービー人形と倒錯的な恋に落ちてしまう少年、隣人が覗いていることを想像しながら裏庭で自慰に耽る娘、自分が誘拐されたにもかかわらず犯人の男に家を出た父親の姿を重ねてしまう少年、自宅を博物館にして事故で植物人間になった息子を展示している母親などなど、病める郊外が何ともユニークなイメージでとらえられている。

■■A・M・ホームズ『In a Country of Mothers』■■

 邦訳もある93年の長編二作目『セラピー・デイト(In a Country of Mothers)』では、個人の内面世界というホームズの関心がより鮮明になる。主人公は、マンハッタンに暮らす女性セラピストと彼女の患者になる若い娘のふたりで、彼女たちの心理が絡み合っていく。セラピストには、若い頃に娘を出産してすぐに養女に出さざるを得なかったという過去があり、この患者の話を聞いていくうちに彼女が実の娘ではないという思いにとらわれていく。

 先述したように『The Safety of Objects』には、自分が誘拐されたにもかかわらず犯人の男に家を出た父親を重ねてしまう少年を描いた短編が盛り込まれているが、このセラピストと若い娘の関係もそれに近い。また、この物語には、ホームズの個人的な世界が繁栄されてもいる。彼女は実の母親を知らずに育ったという背景があるからだ。

 では、そんな設定がなぜ郊外と結びつくのか。それはこの小説では、母親という存在と郊外という空間が意識的に重ねられているからだ。母親は子供を、郊外はそこに暮らす住人を“守る”ものであることが強調され、深く結びついていく。たとえば、このセラピストのクレアが、自分の家族とこの若い娘のために新天地として郊外の家を物色する場面にこんな表現がある。

クレアは静かな、他と同じに見える家を探していた。個人の要塞。簡単には人を寄せつけない外側。外から見て普通であれば、誰も中を知ろうとしたり気にしたりしない場所。最低、安全には見える場所

 要するに、この物語では、守りたい母親=セラピストと守られたい若い娘の心理が絡み合い、郊外を媒介として妄想が膨らんでいくのだ。

 こうしてみると、社会や時代の大きなうねりを背景に既成の家族の変貌を巨視的に描くカニンガムと家族の内面へと深く分け入り、心理を掘り下げるホームズは、非常に対照的な視点と作風の持ち主であることがわかる。そして彼らの新作は、そんな対照がいっそう際立つ作品になっている。

■■マイケル・カニンガム『Flesh and Blood』■■

 カニンガムの新作『Flesh and Blood』には、三世代にわたる家族の営みと変貌が描かれる。しかも中心となる時代が、郊外化の黄金時代=大量消費時代である50年代から現在までに設定され、郊外というアメリカン・ドリームがどう変化してきたのかを一望することができる。

 最初の世代は、ギリシャから移民してきたコンスタンティンとイタリア系の妻メアリ。彼らは、長女スーザン、長男ビリー、次女ゾーイの三人の子供に恵まれ、ロングアイランドの郊外住宅地に暮らしている。父親には不遇の時代があったが、住宅の建設会社を経営するギリシャ人に出会ったことから好転し、成功の道を歩みだす。家庭は豊かで平穏に見えたが、家族の結束は着実に失われつつあった。

 堅実な長女のスーザンは、父親の理想を受け継ぎ、高校時代に出会った恋人とすぐに結婚し、ニュージャージーの郊外で自分の家庭に欠けていた教養や歴史を育もうと心掛ける。長男のビリーは事あるごとに父親と対立する。父親は、豊かな時代のなかで旧来の価値観が失われ、家庭のなかに脆さがあるのを感じ、それを打ち消すために息子に厳しくあたったからだ。結局ビリーは、大学に進学して家を出るとまったく戻ってこなくなる。次女のゾーイは、自分の世界に閉じこもる子供で、家族から浮き、次第にニューヨークの友だちのところに入り浸るようになる。

 
《データ》
 
A Home at the End of the World
by Michael Cunningham ●
(Farrar, Straus and Giroux, 1990)
 
Jack by A.M. Homes●
( vintage contemporary, 1989)
 
The Safety of Objects
by A.M. Homes ●
(vntage contemporary, 1990)
 
In a Country of Mothers
by A.N. Homes●
(vintage, 1993)
 
Flesh and Blood
by Michael Cunningham●
(Touchstone,1996)
 
The End of Alice
by A.M. Homes●
(Scribner, 1996)
 

 やがて彼らはそれぞれの出会いから絆を培い、そこから新しい家族の肖像が浮かび上がってくる。堅実だったはずのスーザンは、罪悪感もなくごく自然に不倫を経験し、子供を身ごもり、ベンを産む。ビリーは、大学の仲間の影響で名前をウィルに変え、ゲイであることに目覚める。ゾーイは、NYで出会ったドラッグ・クイーンのカサンドラを母親とみなし、ドラッグとセックスの世界にのめり込む。やがて黒人とのあいだに子供をもうけ、ジャマルと名づけ、未婚の母となる。一方、彼らの母親のメアリは、常習化していた万引きで警察に逮捕されてしまう。

 著者のカニンガムは、こうした主人公たちの微妙な感情の揺れをそれぞれに繊細な感性で描きだしていく。たとえば、夫が浮気をしていることを知ったメアリは、誰か子供の声が聞きたくなり、ゾーイに電話する。応対したのはカサンドラだったが、その正体を知らない彼女は、たわいない話にも耳を傾けてくれる相手に好感を持つ。やがてゾーイの出産のときにその正体を知った彼女は愕然とするが、時がたつにしたがって絆を深めていく。そんなふうにして家族の一員に祝い事や問題が起こるたびに新しい家族が一同に会するようになる。

 そして、この小説の終盤でとても象徴的なのが、三世代目にあたるベンとジャマルの運命である。祖父となったコンスタンティンは、悪影響を恐れてジャマルをゲイの息子やカサンドラから引き離そうとする。ところが、自分のアイデンティティを失い、悲劇的な運命をたどるのは理想的な環境におかれていたはずのベンの方で、ジャマルは自分の家族を築き上げていくのである。

■■A・M・ホームズ『The End of Alice』■■

 一方、ホームズの新作『わたしがアリスを殺した理由(The End of Alice)』は、まず何よりも前作『セラピー・デイト』をしのぐ奇抜な設定に驚かされる。この小説に描かれているのは、殺人罪ですでに23年も刑務所生活をしている囚人と郊外住宅地に暮らす19才の娘の手紙のやりとりなのだ。この娘は、自分の秘密を囚人にだけ手紙で打ち明けることにスリルと快感を覚え、囚人もそんな挑発に刺激されて妄想を膨らませていく。物語は、この囚人を語り手として、彼と娘の共同作品であるかのように展開していく。

 娘は、大学の休暇で実家に戻り、他の友だちはみんなヨーロッパ旅行を楽しんでいるというのに、家にこもっている。囚人に刺激された彼女は、殺人鬼気取りで、同じ町に住む12才の少年に狙いをさだめ、少年をじわりじわりと誘惑していく。彼女は、テニスのコーチを買って出て少年と親しくなり、彼の両親にも巧みにとりいり、ベビーシッターを頼まれる。家でふたりきりになると、少年のリクエストに応えて全裸になり、彼の好奇心を満足させる。芝生のスプリンクラーが回りだすと、彼らは表に飛びだし、びしょ濡れで絡み合う。

 これはあまりにも突飛な設定で、何が狙いなのか困惑する読者もいるかもしれないが、実際に読みだすと非常に面白い。さすがにホームズだと思うのは、監獄と郊外住宅地が一見すると対極にあるように見えながら、よくよく考えればかなり共通する世界だということだ。郊外住宅地は、余所者が入るのを拒む排他的な世界だが、それは同時に出口のない袋小路でもある。

 そこで、閉ざされた空間のなかにいる囚人と娘の手紙のやりとりは、激しく共鳴することによってお互いの心の奥にあるものを引きだしていく。実際、語り手の囚人は、彼らを隔てる壁を飛び越え、娘と一体化したかのような眼差しで、彼女の生々しい欲望を描きだしていく。あるいは、この囚人のような存在が、郊外を囲う壁をいっそう高くし、そこに深い欲望の闇を作り上げるということもできる。これは、極めてユニークな視点から郊外居住者のなかに潜む脅迫観念、欲望、狂気を描いた作品といっていいだろう。

 この小説のなかで囚人は、郊外に生きることについて、以下のような考察を加える。「安全を確保すること、信じること、愛と理解を得ることがむずかしくなればなるほど、だまし、嘘をつき、盗み、さらには殺しさえする資格があり、許され、奨励されていると感じるだろう。今、そう感じはじめたばかりだというのであれば、あなたは長いこと幸運だったというだけだ

 これは、それほど極端ではないもののカニンガムの新作の世界にも当てはまる。ふたりの新作は、そんな90年代の郊外の閉塞感をまったく対照的な作風で浮き彫りにしている。


(upload:2011/11/21)
 
 
《関連リンク》
Michael Cunningham The Official Website
A.M. Homes The Official Website
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