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ここでは、この映画のようにハイウェイや路上というシチュエーションを通して、郊外生活の歪みを描く小説に注目してみたいと思う。取り上げる3冊の小説には、それぞれにユニークな物語の構造や発想があり、意外なところから郊外生活が見えてくることになる。
まずはスティーヴン・ディクスンが95年に発表した『Interstate』。この小説は、とても長い第1章だけを読むと正攻法の作品のように思えるが、2章、3章と進むうちに作品の狙いが見えてくる。同じ出来事が8章にわたって異なる視点から繰り返し描かれ、章によっては展開が変わっていくのだ。
物語の軸となるのは、ハイウェイで起こったある事件である。ビジネスマンの主人公ナットはふたりの娘たちを乗せてハイウェイを走っていた。その時、ミニヴァンが隣りに並び、助手席の男が窓を開けるようにと合図してくる。何か車の異常を知らせようとしているのかと思ったナットが窓を開けると、男はいきなり銃を向ける。そして発砲し、ミニヴァンは後方に消え去る。その銃弾は、娘のひとりの命を奪ってしまう。
この小説では、この事件をめぐって物語が章ごとに変奏されていくのだが、その流れは実に緻密に計算されている。
まず1章では、事件の顛末が簡潔にまとめられた後、この悲劇が主人公と家族の一生をどのように狂わせていくのかが事細かに描かれる。主人公は犯人を探し求めて1日10時間以上もハイウェイを走りつづける生活を送るようになり、疲れ果てた妻と長女は家を出てしまう。数ヶ月後、彼は犯人たちに遭遇し、彼らを殺してしまう。そして刑務所に送られ、離婚した彼の妻はやがて再婚する。物語は主人公が出所した後もさらに続き、生き残った娘との絆などが描かれ、最終的に彼は孤独な死に至る。
これに対して2章以降では物語が事件の顛末に絞られ、事件の前後の心理や状況が異なる視点で克明に描かれていく。たとえば、主人公は荒っぽい運転をするミニヴァンの男たちを横目で見ながら、あれこれ想像して自分がパラノイアではないかと思ったり、娘が撃たれたことで完全なパニックにおちいった自分を振り返ったりする。あるいは、自分の何が男たちを刺激し、どこで判断を誤ったのかという疑問が強迫観念になっていく。こうしたその場の心理や回想は、第1章にひとつの最悪の結末が提示されているだけに、重々しい緊張感を漂わせる。
そして小説の終盤にはさらに皮肉な展開が待ち受けている。ミニヴァンが並んできたとき、主人公はアメリカ社会の変化について考えだす。郊外化にともなう生活様式や家族の絆の変化、映画や音楽、ゲームが撒き散らす暴力的なイメージが、このミニヴァンの男たちのような人間を生みだし、モラルを低下させ、安心して暮らすこともできない社会を作ってしまったのだと。ところが男たちは発砲もせずに後方に消える。しかし皮肉にも主人公は、前を行くのろのろ運転の車に苛立ち、事故を起こしてしまうのだ。さらに最後の章では、途中の休憩所でミニヴァンの男たちが挑発的な運転をしたことを謝罪し、主人公一家は無事に家に帰り着く。
最後はハッピーエンドというわけだが、もちろん読者がそんな気分になれるはずもない。この小説からは、安全で快適なサバービアの生活に安住している人間の深層に潜む不安や苛立ち、脆さ、強迫観念などが浮かび上がってくるのだ。
スティーヴン・ライトの『Going Native』も、1章だけを読むと正攻法の作品かと思うが、2章以降に予想もしない展開が待ち受けている。物語はシカゴのサバービアに妻と暮らすワイリーが、友人夫妻を招いてバーベキュー・パーティを開くところから始まる。ところが、ショッピング・センターに炭を買いに行ったワイリーは、その直前に起こった発砲事件の犠牲者が運び出されていくのを見て、何かが狂いはじめる。結局彼は、パーティの最中に自分の車も残したまま忽然と姿を消してしまう。
そして小説は2章以降、意外な展開を見せる。基本的には、章ごとに別な登場人物の異なる物語が綴られていくのだが、各章の終盤にワイリーらしき人物の影がちらつき、おぼろげながら彼の移動の奇跡が浮かび上がり、変則的なロード・ノヴェルになっていくのだ。
それぞれの物語には直接的な繋がりはないが、ある共通点がある。たとえば、ワイリーの3軒隣りに住むカップルは、ドラッグを常用し、ショッピング・モールの映画館で「バットマン」を観ながら映画のキャラクターと同化することを楽しんでいる。ハリウッドに売り込むSF映画のシナリオ作りに没頭するモーテル経営者の一家は、密かにお互いを監視しながら毎日を過ごし、ポルノ映画の女教祖を信奉するカメラマンは、ヴィデオの画面に浮かぶ自分の姿が自分を観察しているような幻覚にとらわれ、ラスヴェガスの結婚式場は、ほとんど現実の結婚そっちのけでハイテクを駆使した巨大な劇場と化している。
この小説では、ワイリーの内面がほとんど描かれないため、彼がどうして家を飛びだし、アメリカをさまようのかは必ずしも明かではないが、物語のディテールにはそれが現われている。彼が暮らしていたサバービアは、映画「シザーハンズ」の舞台のようにパステルカラーで統一され、人工的に快適な空間が作られている。そしてパーティでは、食べ物について、こんなに旨いのだから本物ではなく人工の偽物に違いないという会話があったり、ワイリーが家のなかから双眼鏡で庭にいる妻や友人たちを観察するといった場面がある。
彼はそんな人工的で表層的な世界を逃れ、自分を探し求めるのだが、彼が通過していく世界では、人々はアイデンティティを失い、見ることと見られることの関係のなかに何とか自分の存在を繋ぎとめている。移動するワイリーは、そんな表層化した世界を潜り抜けながら、それ以外に変化の道がないかのように凶暴化していくのだ。
最後に取り上げるダグラス・ケネディの『The Big Picture』は、物語の展開に『Going Native』と似たところがある。妻とふたりの子供たちとコネチカットのサバービアに暮らし、ウォール街の法律事務所に勤めるこの小説の主人公ベンもまた、事情はまったく違うが、サバービアを飛びだし、奇妙な自分探しの旅を始めるのである。
豊かな生活を送るかに見えるベンは、胸のうちではかつて憧れた写真家への夢を捨て切れずにいる。ある日彼は、妻が近くに住む自称写真家ゲイリーと浮気をしていることを知る。間もなく妻から離婚を求められた彼は、ゲイリーの家に乗り込む。そして、自分で自分を憎むベンの生き方を妻がいかに憎んでいるのかを知らされ、激昂してゲイリーを殺してしまう。
窮地に立たされたベンは、悩んだあげくある計画を思いつく。彼は、友人からヨットを借り、ゲイリーの死体を積み込む。そのヨットで沖に出ると小さなボートに乗り換え、自殺したように見せかけるためにヨットを爆破し、ゲイリーとなって旅立つのである。彼は、人目につく田舎町を避けるようにハイウェイの旅を続け、アメリカ中をさまよう。
やがて自分の死亡が確定し、葬式が終わると、彼はモンタナのある町に落ち着き、写真を撮り始める。郊外生活に埋没した自己を葬り去った彼は、無心となってモンタナの日常を見つめ、その作品はしだに地元の話題になる。さらに彼は、新しい恋人と山荘で過ごしているうちに山火事に遭遇し、命をかけて消火にあたり犠牲となった消防隊員の決定的な瞬間をとらえ、全国にゲイリーの名前が知れ渡る。長年の夢が叶いかけたとき、彼は危険な立場へと追い込まれていくことになるのだ。
『Going Native』とこの『The Big Picture』の結末はとても印象的である。東海岸のサバービアを飛びだし、奇妙な冒険の旅を経たそれぞれの主人公は、最終的に名前を変え、西海岸のサバービアで別の妻子と暮らしている。
ワイリーは、テレビのザッピングや変装して街で見かけた女性をつけまわすことで退屈をまぎらわし、この世には個人のアイデンティティは存在しないという確信のなかを生きている。一方ベンは、写真を続けていて、妻からはモンタナ時代よりもさらに研ぎ澄まされていると認められるが、編集者やエージェントは興味を示そうとはしない。そして皮肉なことに神秘のベールに包まれた写真家ゲイリーの生涯が映画化されることになるが、それはもはや彼には何の関係もないことなのだ。
この3冊の小説から浮かび上がってくる画一的で表層的な生活の閉塞感とアイデンティティの喪失感が、そのまま現在の日本に当てはまると思うのは、おそらく筆者だけではないだろう。
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