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ふたりの関係は、「路上」における語り手サル・パラダイスと、彼が想いを寄せるつかみどころのないディーン・モリアーティ、そしてケルアックとニール・キャサディの関係を髣髴させる。ジミーには黒人の血も流れているという設定は、
「ハックルベリー・フィンの冒険」のハックとジムを連想させもする。実際この小説では、本が好きなマットが、書店からケルアックやトゥエインの本を盗んだり、彼とジミーの関係をケルアックとキャサディ、ハックとジムになぞらえたりする場面があるのだ。
しかしながら、この小説が現代の”路上”を思わせる一番の理由は、その時代背景にある。ケルアックや彼の「路上」は、戦後の冷戦構造のなかで、一般大衆が政治や社会から逃避し、大量消費に支えられたアメリカン・ドリームに酔いしれる時代に、鋭い輝きを放った。 この小説は、レーガン政権がその50年代の価値観を呼び覚まし、保守化政策をすすめた時代、同じように人々が消費にまみれ、不毛な上昇志向が幅をきかせた80年代を背景としているのだ。
マットが旅をとおして目撃するのは、たとえば、狂信的なキリスト教信者の家庭で息がつまりかけている子供たちや、レーガン再選を祈る聖書研究会であり、両親が海外旅行をしている間に、 自宅にパンク・バンドを呼んで空虚な馬鹿騒ぎをしているサバービアのティーンエイジャーたち、デッド・ケネディーズやサークル・ジャークスのフリークで、本当は孤独なのに自殺がトレンドだとうそぶく娘であり、巨大なショッピング・モールをあてもなく彷徨っている娘なのだ。
マットが彷徨うアメリカは、孤独と悲しみに満ち溢れ、路上の彼方に高揚の予感はまったくない。そして、マット自身もまた必ずしも前向きな気持ちで路上に踏み出していくわけではない。というのも彼は、もともと平凡な家庭の子供だったのだが、
12歳のときに家に暴漢が侵入し、両親を殺されてしまい、孤児となるのである。ある意味で著者ビーチーは、そんな設定を作ることによって、強引にマットを路上に押し出していくともいえる。
そして強引であれ何であれ、80年代という不毛で空虚な時代を正面から見据え、きっちりと決着をつけることによって、未来に踏み出していくところに、この小説の魅力があるのだ。
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