第1章 50年代の郊外の世界へ

  バック・トゥ・ザ・フューチャー/Back to the Future―――――1985年/アメリカ/カラー/116分/ドルビーSR
リトル・ショップ・オブ・ホラーズ/Little Shop of Horrors―――1986年/アメリカ/カラー/94分/ドルビーSR
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(初出:東京書籍刊「サバービアの憂鬱」、1993年)

 アメリカにおいて、中流の人々が続々と郊外を目指すといってもいいくらいに郊外化がものすごい勢いで進んだのは、第二次大戦後から50年代にかけての時期である。それが、あの郊外の典型的なアメリカン・ファミリーのイメージが作り上げられた時期だ。

 そうした50年代の郊外化に関する具体的なデータと実情については、次の章で詳しく触れることにして、ここではまず、当時の郊外の全体的なイメージを身近なものにするために、その参考になるような映画から入っていくことにしたい。

 最初に取りあげるのは、誰もが知っているであろうロバート・ゼメキス監督の『バック・トゥ・ザ・フューチャー』(1985年)だ。この映画の主人公マーティ(マイケル・J・フォックス)が暮らしているのは、1985年の郊外の世界である。彼の家庭も、スピルバーグの家庭像ほど深刻な含みはないものの、あまりうだつの上がらないパパに、生活に疲れているようなママと、全体にだいぶガタがきているように見える。

 そして、この主人公マーティが、ドク(クリストファー・ロイド)の発明したタイムマシンに乗って訪れるのが、1955年の世界なのである。郊外化がどんどん進行し、アメリカン・ファミリーのイメージが定着しつつある時代だ。この50年代半ばの世界で、マーティがひょんなことから紛れ込んでしまう彼の母親(といっても30年前の彼女だから未来の母親だが)の家庭は、当時の郊外の家庭の一例ということになる。

 この55年から85年まで、ファッションが変わったり、技術的な進歩によって何かと便利なものが増えるといったことはあったわけだが、郊外の基本的なライフ・スタイルといったものは変わっていない。『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のシリーズは、過去から未来に渡っていろいろな時代を訪れることになるが、この第1作の面白さは、基本的なライフ・スタイルが変わっていないことが大きな要因になっている。これが、55年よりもさらに10年とか20年さかのぼってしまえば、マーティもすぐに異変に気づくところだろうが、郊外の世界に限っていえば、55年は現在のライフ・スタイルのベースが出来上がった時代だけに、30年というギャップはあっても、どこか身近な風景を見ているような気がしてしまうわけだ。また、テレビ番組に関する話題のズレで笑わせるようなユーモアも、これより前の時代では成立しにくくなる。

 本書の流れもまたこの映画と同じように、まずアメリカン・ファミリーの典型的なイメージが出来上がった50年代を訪れ、それから、この映画のように一足飛びにではなく、ゆっくりと現在に向かっていくことになる。ライフ・スタイルが変わらなければ、同じことが繰り返されるだけで、一冊の本のテーマにはなりえないように思われるかもしれないが、序章でも少し触れたように、その世界から予想もしないイメージや事件が浮かびあがってくるところが、郊外の世界の奥深さともいえる。

ところでこれは少し余談になるが、次の章以降で触れていく郊外に現実に照らしてみると、この『バック・トゥ・ザ・フューチャー』の展開には、いささかリアリティが薄れてくる部分がある。もちろん、タイムマシンが出てくるような話だということを考えれば、このことは些細なことになってしまうが、郊外というテーマからすれば念頭に置いていくのも悪くないと思う。

―バック・トゥ・ザ・フューチャー―


◆スタッフ◆

監督/脚本
ロバート・ゼメキス
Robert Zemeckis
脚本/製作 ボブ・ゲイル
Bob Gale
撮影 ディーン・カンディ
Dean Cundey

◆キャスト◆

マーティ
マイケル・J・フォックス
Michael J. Fox
ドク クリストファー・ロイド
Christopher Lloyd
ロレイン リー・トンプソン
Lea Thompson
(配給:UIP)

―リトル・ショップ・オブ・ホラーズ―


◆スタッフ◆

監督
フランク・オズ
Frank Oz
オリジナル脚本 チャールズ・B・グリフィス
Charles B. Griffith
脚本/作詞 ハワード・アシュマン
Howard Ashman
作曲 アラン・メンケン
Alan Menken
撮影 ロバート・ペインター
Robert Paynter
編集 ジョン・ジンプソン
John Jympson

◆キャスト◆

シーモア
リック・モラニス
Rick Moranis
オードリー エレン・グリーン
Ellen Greene
オリン スティーヴ・マーティン
Steve Martin
マシュニク ヴィンセント・ガーデニア
Vincent Gardenia
(配給:ワーナー・ブラザース)


 ひとつは、この映画では、マーティの母親の両親とマーティの両親というふたつの世代が、同じ郊外の町に暮らしていることになるが、そういった確率は現実にはどの程度なのか? そしてもうひとつは、マーティが55年という過去の世界に少し手を加えたおかげで、彼が現在に戻ってみると、パパは成功した作家になっているわけだが、もし彼らの周囲が何も変わっていないとしたら、同じ町の同じ土地(これは広さの問題ではない)に、以前とは見違えるような家を建てることが可能かどうか? これは、後で現実に則して答を出してみることにしよう。

***

 今度は、当時の夢の郊外のイメージをもっと明確にするために、フランク・オズ監督の『リトル・ショップ・オブ・ホラーズ』を見てみよう。

 これは、B級映画の帝王ロジャー・コーマンが60年に監督した同名作品をミュージカル仕立てでリメイクした作品だ。この映画は、その内容とかストーリーを少しかじっただけでは、郊外と関係があるようには見えないことだろう。舞台は、ニューヨークのダウンタウン。売れない花屋の店員シーモア(リック・モラニス)がひょんなことから手に入れた珍しい植物が、実は血を吸い、人間を餌食にするモンスターだったということから、大騒動へと発展していくホラー・コメディなのだ。

 ところがこの映画をじっくり見ると、50年代の郊外への憧れが凝縮されている場面があるばかりではなく、そうした憧れをめぐって、ひねりの効いたユーモアが盛り込まれているように思えてくる。そのユーモアについては後の章で触れるが、とりあえずここでは“凝縮”の場面の方に注目してみたい。それは、シーモアと同じ花屋で働き、彼に密かな想いを寄せるオードリー(エレン・グリーン)が、シーモアと同じ屋根の下で暮らす夢を、歌と書き割り風の映像で綴る場面である。

 それでは、歌の歌詞を織り交ぜながら、50年代のアメリカの、典型的な郊外の夢のイメージをたどることにしよう。ダウンタウンのアパートのなかで、オードリーはこんなふうに歌いだす。(歌詞は『リトル・ショップ・オブ・ホラーズ』のプレス資料より引用)

マッチ箱のような家でいい
チェーンをつなげた垣根をめぐらし
中庭にはバーベキュー・グリル
流しにはディスポーザル
洗濯機に乾燥機
それにスチーム・アイロン
緑に囲まれたささやかな建て売り住宅

彼は庭の手入れ
芝刈りが彼の趣味
あたしは台所でお料理
テレビのドナ・リードのように
家具はビニール張り
傷やほこりがつかぬよう
さわやかな洗剤香る
緑に囲まれた家

 彼女は、アメリカ版「暮らしの手帳」ともいわれる「ベター・ホームズ・アンド・ガーデン」誌を手にとって、ベージをめくりはじめる。雑誌のなかでは、母親が清潔なキッチンから身を乗りだすようにして、窓の外で遊ぶ子供たちを眺めている。次のページをめくると、子供たちがわきから覗き込むのを横目に、母親が魔法でも披露するように、洗濯機のスイッチに手をかけている。オードリーの視線は「ベター・ホームズ〜」誌から想像の世界へと羽ばたき、映像は書き割りで作られた郊外の世界に変わる。

 家の前に広がる庭では、シーモアが芝刈り機で庭の手入れをしている。彼女は優雅にダンスしながらキッチンへ。テーブルの上のチョコレート・ケーキをちょっとつまみ食いして、流しのわきのピカピカに磨かれたトースターの曲線を両手でなぞる。それからサンドイッチを食卓に持っていく。そこでは近くに住む主婦たちが、たくさんのカラフルなタッパーウェアを広げたテーブルを囲み、会話に花を咲かせている。いわゆるタッパーウェア・パーティである。

 オードリーの歌はつづく。

美しい緑に囲まれて
冷凍ディナーをいただいて
9時15分には眠りにつく
“アイ・ラブ・ルーシー”を
12インチ・テレビで楽しんでから

彼と結婚するのは12月
パパは何でも知っている
子供たちにはハウディ人形
太陽が西へかたむくころ
“ベター・ホームズ”マガジンから
抜け出たような夢のわが家

 テレビの前に、ふたりの子供と犬が横になり、その向こうでは夫婦がソファに座って子供たちの様子を楽しげに見ている。それから場面は変わり、シーモアとオードリーは、子供部屋を覗き、そして寝室に消える。

 この歌と映像には、50年代の郊外を象徴するような固有名詞やイメージが、とてもコンパクトにまとめられている。これから探ろうとしているのは、このあまりにもくっきりしたイメージが、いったいどんな背景から出来上がってきたのか、ということである。次の第2章から第6章にかけては、このイメージをいくつかの要素に分けて、その背景を探っていこうと思う。

 まず第一に、芝生のある一戸建ての家である。引用したこの曲の題名が<緑ある所(Somewhere That’s Green)>というだけあって、歌詞にも緑が何度となく出てくる。芝生のある家は、芝刈りの趣味やバーベキュー・パーティといったライフ・スタイルにもつながっていく。次の第2章では、こうした芝生のある一戸建てに、人々のどのような憧れが投影され、それがどうして急激な郊外化をまねくほど身近な夢に変貌していったのかといったことを明らかにしていく。ちなみに本書の後半では、芝生を愛し、郊外の世界のなかで芝刈りを一生の仕事して選んだ男を主人公にした小説なども登場してくる。

それから、オードリーの歌からも、生活にひときわ大きな影響を及ぼしていることがうかがえるテレビ。第3章では、このテレビの普及が郊外の娯楽をどのように変え、生活のなかにどのように浸透していったのかをみてみる。オードリーは当時の雑誌の広告に見入り、何もかもが新しく見える電化製品や家具に囲まれた生活を夢見るが、第4章では、50年代の広告と大量消費の時代をテーマにする。第5章では、こうしたライフ・スタイルの急激な変貌のなかで、人々の価値観がどう変化していったのかを、『パパは何でも知っている』といったホームドラマなども取りあげて考えてみる。

 最後に第6章では、郊外に対する視点を少し広げ、郊外と都市との関係から郊外の意味を探る。ここでは人種差別の問題も絡んでくる。ちなみに、『リトル・ショップ・オブ・ホラーズ』も、都市のダウンタウンを舞台に、郊外への願望が浮かびあがる映画という見方ができる。この映画で歌われる<スキッド・ロウ(ダウンタウン)Skid Row(Downtown)>という曲には、「こんなところで埋もれたくない/ここを逃げ出す道はないのか/はきだめからはいあがり/こんな所とおさらばしたい」といった詞が織り込まれている。先ほどこの映画には、ひねりの効いたユーモアがあるように思うと書いたが、それについてはこの第6章で触れることにする。

 それでは、50年代の郊外化の実情を覗いてみることにしよう。



(upload:2002/02/11)

《関連リンク》
サバービアの憂鬱 第2章 新しい郊外の現実 ■

 
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