第4章 広告と商品から浮かびあがる郊外の幸福

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(初出:東京書籍刊『サバービアの憂鬱』、1993年)

 何年か前の「ローリング・ストーン」誌で、50年代の小特集をやっている号があった。その特集ページには、50年代のポスターや写真などの図版が何点か使われていたのだが、そのなかの一枚の写真がとても印象に残っている。

 背景はちょっと薄っぺらな感じがする郊外住宅で、まだ完成していないのか、プレハブ風の建材が家のわきに積み上げられている。家の前の芝生には、冷蔵庫や洗濯機、テレビ、オーブンから、パーティで役に立ちそうな、丸椅子が組み合わさった奇妙な格好のソファにテーブル、それに鍋やミキサーなどこまごましたものまでが、芝生を埋め尽くすように広げられている。そしてよく見ると、芝生の中央で様々なものに囲まれるように、パパとママ、まだ小さな息子と娘の4人が、カメラに向かって笑顔を浮かべて立っているのだ。

 写真には特に解説はそえられていないが、おそらくは郊外に引っ越してきた家族のスナップ写真なのだろう。その光景は、消費を楽しむ“アメリカン・ウェイ・オブ・ライフ”の楽天的な雰囲気に溢れている。郊外の一戸建てにテレビとくれば、あとはおびただしい数の商品の山、大量消費の世界である。この写真が、現実のものであると同時に、50年代の広告を見ているような気分にさせるのは、住宅業者が単に家を売るのではなく幸福を売り物としたように、テレビが単なる娯楽ではなく家族の絆の象徴になったように、50年代の商品の広告が、商品そのものではなく魅力的なライフ・スタイルを売り物としていたからだ。

 それは『リトル・ショップ・オブ・ホラーズ』のオードリーの歌の場面にもよく現れている。彼女は「ベター・ホームズ・アンド・ガーデン」誌に載っていた商品の広告を見ながら、郊外の夢の世界に入っていく。彼女の歌は、「“ベター・ホームズ”マガジンから抜け出たような夢のわが家」という詞で締めくくられる。このとき彼女は、商品の広告を通して見えてくる生活全体に憧れを抱いているのだ。

 実際、彼女が見入る広告には、当時の広告の特徴がよく出ている。テレビの場合もそうだったが、50年代の広告では、宣伝する商品だけをクローズアップするのではなく、商品は生活の一場面に巧みに組み込まれている。オードリーが見入る広告では、母親が清潔なキッチンの窓から身を乗り出すようにして、外で遊ぶ子供たちを眺めていたり、あるいは、母親が魔法を披露しているかのように、子供たちが洗濯機を覗き込んでいる。こうした生活の断片は、すべてアメリカン・ウェイ・オブ・ライフへとつながり、冒頭で触れた写真のように、人々はトータルなイメージを持った生活を追い求めることになる。

 
 


 このことは、第3章で取りあげた「コリアーズ」誌のビールの広告からもわかる。あれはあくまでビールの広告ではあるが、芝生のある庭やテレビのある暮らしとビールが完全に結びついている。おそらく、そうした生活を送っていない人々にとっては、この広告におけるビールは、あまり魅力的なものに見えないか、あるいはオードリーのように、ビールだけでなくその生活すべてを手のしたいと思うことだろう。

 50年代の広告は、もちろん全体の印象としてはアメリカの豊かさといったものが際立っているが、個々の広告について見ていくと、ただ豊かさを直接的に強調するよりも、家庭生活の雰囲気を商品にいかに投影するかということに工夫がこらされている。

 たとえば、1950年の「ライフ」誌に載ったあるトースターの広告では、鏡のようにものを映すトースターの金属製の胴体に、盛装した若いカップルの姿が浮かび上がっている。『リトル・ショップ・オブ・ホラーズ』のオードリーが、トースターを大切そうに両手でなぞる場面からもわかるように、この時代、トースターは新しい消費生活を象徴するもののひとつであり、この広告のトースターは、まるでカップルの記念写真を飾るための写真立てのようにも見えてくるのだ。また別のトースターの広告では、主役のトースターのまわりに、細かなイラストで家族の様々な娯楽の様子が描かれている。それは家族がテレビを囲む光景であったり、新年やクリスマスのホーム・パーティであったり、テーブルを囲むカード・ゲームなどである。トースターがあれば、映画やナイトクラブではなく、家庭を中心とした様々な娯楽が楽しめるというわけだ。

 言葉をかえれば、50年代の広告から浮かび上がる商品は、テレビというモンスターの援護のもとに、家族を家庭に引きつけ、結びつけるための媒介のような印象を与えているのである。1952年の「サタデー・イヴニング・ポスト」に載った冷蔵庫のイラストの広告では、両親と4人の子供たちが買物から戻ってきて、買ってきたものをみんなで楽しげに冷蔵庫につめている場面が描かれている。この冷蔵庫の売りは、たくさんのものが入るということだが、イラストが暗示するのは、大きな冷蔵庫であれば、いつも家族が全員で欲しいものを買いにいくことができるということだろう。外出したままの格好で、ジャケットも脱がずにものをつめている家族の姿は、それまでの買物の楽しさを強調しているように見える。

 そして、家族が娯楽も含めて、家庭を中心とした生活を送るということは、横のつながりを大切にする郊外を中心とした生活を送るということでもある。社交的な関係があまり発展することのなかった郊外などでは、商品が媒介になって隣人同士の交流をスムーズなものにする。オードリーの歌の場面にも出てきたタッパーウェア・パーティなどは、こうした郊外の理想と商品が結びついた商法の好例といえるだろう。これはホーム・パーティを開いて、タッパーウェアの使い方を実演しながら商品を販売する商法である。そこで、お互いのことをよく知らない隣人同士は、タッパーウェアがきっかけとなって、ごく自然に社交の輪を広げることができるようになり、同時に商品がコミュニティにも浸透していくことになる。商品が家庭ばかりでなく、コミュニティをも活性化させていくわけだ。

 特に、過去の伝統的な価値観から切り離され、根無し草的に移動する郊外生活者の場合には、彼らのなかに絶対的な基準があるわけではなく、何を買うかという選択についてもコミュニティに左右されるところがある。ホワイトは『組織のなかの人間』のなかで、消費と集団の関係についてこんなふうに書いている。

 贅沢品がいつ必需品になるかを決定するのは集団である。このことは一種の批判的な大衆が集合するときに起こる。たとえば自動乾燥機を持っている奥さんが、或るブロックでほんの数人しかいなかったような初期の段階では、自動乾燥機を欠くべからざるものとしてほめちぎる口伝えの噂話はあまりひろまらない。だがその後、時期がたち、隣り近所の奥さん連中が真似して自動乾燥機を買うにつれて、それを持たない他の人々は、自動乾燥機の利点についてのお喋りをますます多くきかされるようになる。やがてそれを持たないことがほとんど非社交的な行為になり――他人の判断や嗜好に対する暗黙の中傷となる。この段階でなお持ちこたえることができるのは最も頑固な個人主義者だけである。なぜならば、集団は、あまりに早く買いすぎるといった成員を罰すると同様、それを買わないからといっても、罰するのだから。

 それでは、実際の郊外居住者たちの経済感覚はどのようなものだったのだろうか。『組織のなかの人間』によれば、彼らはほとんど貯蓄をしないという。当時の銀行預金の全国平均が1342ドルであるのに対し、シカゴのパーク・フォレストやペンシルヴェニアのレビットタウンでは、銀行の報告によると平均預金額が300ドルだということだ。但し、郊外のコミュニティの影響が大きいとはいえ、誰もが同じように消費に邁進しているとはかぎらない。それは世代の違いによる。不景気な時代の記憶がいまだに生き生きと残っているような比較的年長の夫婦は、周囲である商品が贅沢品から必需品に変わろうとも、ものによっては購入をひかえることがあるという。しかし、郊外のライフ・スタイルの主流をしめているのは、あくまで若い世代の夫婦である。

 彼らは希望が湧きでる時代に青年期に達し、成人としての初期の時代を通じて、社会一般についても、個人についても、たえず繁栄が増大していくことしか知らなかったのである。

 新しい郊外居住者たちが、移動することによって郊外の階段を上へ上へと登っていくことについては第2章で触れたが、これは繁栄しか知らない人々が作り上げた階段だけに、降りるということが難しいというのも頷ける気がする。50年代の人々は、未来が保証されているという展望に立って前進をつづけていったわけだが、その展望に翳りがさすときには、果たしてどのような感覚に襲われることになるのだろうか。『組織のなかの人間』には、郊外居住者がその収入の最低線を下回ることになった場合について、こんなふうに書かれている。

 ただ単に、家庭から幾つかの贅沢品がとりあげられるかもしれないという脅威になるだけではない。それは彼らをひとつの生活様式からほっぽりだしかねないのだ。郊外住宅地はチャチなお上品振りを大目に見たりはしない。支出がひどく切りつめられれば、おそらくはかえりみられないような楽しみ事も、二義的な付属的なものではないのである。中産階級の端くれに位置している家庭にとっては、それらは社会的な必需品なのである。

 これは、冒頭から書いてきたような、商品がアメリカン・ウェイ・オブ・ライフのイメージ全般と結びついていることの裏にある恐ろしさともいえる。人々はひとつの商品から生活全体を求めるが、生活全体を手にした後では、今度はひとつが欠けることによって生活全体が崩壊しかねないということだ。大袈裟な表現に思われるかもしれないが、ある意味で歯車が完璧にかみ合って回転している郊外の世界では、ひとつの歯車が狂ったためにすべてが狂っていくということがありうるのだ。

 実際、本書でとりあげる小説や映画には、アメリカ社会の景気後退のなかで、職を失ったり、レイオフに対して普通ではない脅威を感じるために、奇妙な行動に走る郊外居住者も登場することになる。

《参照/引用文献》
『組織のなかの人間――オーガニゼーション・マン』ウィリアム・H・ホワイト●
岡部慶三、藤永保、辻村明、佐田一彦共訳(東京創元社、1959)

(upload:2002/02/24)
 
 

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