第6章 郊外と都市のはざまで揺れる理想

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(初出:東京書籍刊『サバービアの憂鬱』、1993年)

 さてここまで、50年代の郊外化をいくつかのポイントから探ってきたが、いよいよこの章で現代までつづく郊外のライフ・スタイルのルーツを確認する作業も最後ということになる。これまでは、戦後の背景から出発して、郊外の世界の内側に迫っていくような視点で話を進めてきたが、この章ではその視野を広げ、郊外の外部の世界と郊外の関係について考えてみたい。都市から郊外へ、あるいは郊外から都市に向けられた人々の意識が交錯する境界線には、どのような感情がうごめき、また具体的にいかなる制度が介在しているのかといったことを明らかにしてみたいと思う。

 50年代の郊外の世界は、都市に対する相対的な価値観の反映から独自のコミュニティ精神が発展していったが、ある出来事がきっかけとなって、都市から独立したように見えるこのコミュニティの壁に突然、亀裂が生まれることがある。

 たとえば、人種差別の問題などは、そうした亀裂をまねくひとつの大きな要因である。一目瞭然だが50年代の広告には、黒人の家庭などまったく登場しない。このことについては、人種差別の問題がまだ表面化していない時代だからという説明もできそうだが、人種の問題が表面化してきたからこそ郊外が発展したのだと考えることもできる。

 それでは実際のところ、新しい郊外では、人種の問題がどのように処理されていたのだろうか。まず『組織のなかの人間』で、パーク・フォレストの場合を検証してみることにしよう。これは、ある出来事がきっかけでコミュニティの壁に亀裂が入る実例ともいえる。

 黒人の入居を許可するかどうかについて、激しい論争がおこなわれた。根本から二派にわかれてしまう勢いであった――一方の少数グループにとっては、黒人の入居を許可することは、その人たちのもっている社会理想を実現することであった。だがもう一方のグループ――それは以前彼らの住んでいたシカゴの区域が、今や黒人に「分捕ら」れた連中が大部分である――にとっては、黒人の転入許可は、いったん去ったと思った脅威の再来であった。だがおそらく一番ひどく苦しめられた人たちは中道派の人たちであった。彼らの大部分もまた許可に反対であった。しかし黒人は一人として入ってこなかったにもかかわらず、痛手は受けたのである。論争がおこなわれたのであり、この問題について人々が議論しなければならなかったというその事実によって、これまで大事にされてきた平等主義の理想がもはや無垢のまま保存することは不可能になったのである。


 
 
 


 この引用で興味深いのは、中道派の人々に関する後半の部分である。そこには人種差別の問題に限らず、もっと広い意味で郊外居住者の意識がよくあらわれているように思う。

 郊外は、それぞれのレベルで収入や地位に差がない人々で構成される。当然のことながら、人々の価値観にもそれほど差があるわけではない。そうした人々の交際が活発化し、横のつながりが強固になれば、彼らの価値観から欠落しているものは、次第に存在が希薄になり、いずれ存在しないものとなる。この引用についていえば、対立する二派の人々にとっては、立場の違いはあれ黒人の存在は揺るぎない現実だったが、中道派の人々にとっては、自分たちの意識のなかに黒人は存在しないも同然だったことだろう。そんなふうに生活や意識のなかでかけ離れてしまったものが唐突に顔を出すとき、安定しているかに見える郊外の価値観はひどく揺らぎやすいものになる。

 たとえば『組織のなかの人間』には、郊外のあるエリアにストリッパーあがりの女性が転居してきたというエピソードが盛り込まれている。彼女は自分の素性を隠すどころかおおっぴらに吹聴し、そのエリアは混乱におちいり、人々の関係はもとどおりというわけにはいかなくなったという。もちろん、郊外の住人もセックスの話をしないわけではない。むしろパーティなどでは、積極的にそうしたことを話題にすることもある。しかし、それはあくまでコミュニティの関係をスムーズなものにするための潤滑油のようなものだ。町の腐敗を恐れて、歓楽街といったものを排除する郊外の世界にとって、元ストリッパーの実話は、存在しないものが唐突にあらわれるのに等しいだろう。

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 話は人種の問題に戻るが、第2章を振り返ってもらえばおわかりのように、郊外の発展は戦前、戦後を問わず、人種の問題が背景に潜んでいる。移民が都市に流入したり、黒人たちが南部から北部へ、農村部から都市部へと大きく移動したことが背景となって、スラム化する都市を嫌う人々が郊外へと流出したということだ。そして、この都市と郊外の境界からは、人種差別の制度が浮かび上がってくる。

 現代のアメリカで、黒人が置かれる複雑な立場を探る上坂昇の『アメリカ黒人のジレンマ』には、住宅をめぐる黒人に対する差別と制度の結びつきが、このように記述されている。

 これまで長い間にわたって住宅地の人種差別に利用されてきたのが、土地利用規制法(ゾーニング)である。地方政府の多くは歳入の多くを財産税に依存しているので、比較的高価な住宅建設のみを許可するような土地利用の制限を実施する傾向がある。その第一号が実施されたのは、1919年、ニューヨーク市でのことだ。過密を阻止するという名目で多くの地方自治体がこの法律を導入し、今日ではアメリカの大部分の市町村が土地利用を規制する地方条例を持っている。白人の富裕層は、排他的な郊外住宅地を守るために、この法律に力を貸した、結果的には、一定価格以下の建物の建築の禁止、一定規模以下の敷地の禁止などによって、低所得層の郊外への流出を抑制することになった。つまり、黒人は郊外に来るなということをこの法律を利用して示したのである。

  住宅の売買契約のさいに、将来その住宅を手放すことがあっても黒人やユダヤ人には売らないという証書をかわすこともよく行われている。

 このソーニングが、人種差別以外にも、郊外の住人にとって好ましくないものを排除するために、様々なかたちで利用されていることは後の章で触れるが、確かにこうした制度や裏取引が広く行われているとなれば、黒人が郊外にやって来るのは難しくなる。そして、あの50年代のアメリカン・ファミリーのイメージは、こうしたシステムにも支えられているということになる。

 それでは、マリノリティではあるが、少なくとも郊外に家を買うことができた人々の場合には、果たして郊外でどのような体験をすることになるのだろうか。都市から郊外に移るということは、都市の生活と同時に過去も捨てることになるということについては、すでに第2章で述べたとおりである。それは移民の子供たちにとっては、難しいだけではなく、苦痛にもなるはずだ。郊外の町のなかで、あくまで民族や宗教の伝統を維持しようとすれば、コミュニティとの衝突は避けられないだろう。そういう意味では、マイノリティの人々は、郊外に転居することについて、厳しい二者択一を迫られることになる。

 バリッツの『The Good Life』には、二者択一を迫られた人々の体験について、対照的な例が紹介されている。ひとつは、50年代初頭にニューヨークから郊外に転居することを決めたあるユダヤ人の場合だ。彼は、転居先の候補にあげたコミュニティを実際に見にいくと、他にユダヤ人が暮らしているかどうかをチェックする。そして、誰もいないかあまりにも少数であれば、周囲の運動によって町から締め出されるときのことを考え、さらに別の町を探す。そうやって完全なユダヤ人のコミュニティを探しつづけるのだ。

 もうひとつは、あるイタリア人の場合である。彼と仲間たちは、都市の黒人を嫌って郊外に転居した。彼らはGI Bill(復員兵援護法)のおかげで、土地と家を手に入れるというアメリカン・ドリームを実現したが、それと同時に伝統を失い、アメリカナイズしてしまったという。彼は、自分たちの文化が破壊されてしまったことを嘆いている。

 こうなると50年代の楽天的なアメリカン・ファミリーのイメージは、ある種の踏み絵のようにも思えてくることだろう。こうした郊外の人種差別やマイノリティのアイデンティティの喪失については、後の章で何度となく触れる。そのなかには、中流の白人の郊外に転居したユダヤ人家庭をブラック・ユーモアで描いたブルース・J・フリードマンの小説『スターン氏のはかない抵抗』、白人の郊外に暮らす黒人やアジア人の家庭の姿をとらえた写真も含まれるビル・オウエンズの写真集『Suburbia』、白人の郊外に転居したユダヤ人家庭の少女の体験を綴ったノンフィクション『Grown-up Fast』などがある。

 またもっと時代が進むと、黒人の立場も新たな局面を迎える。黒人たちは、中流を形成する人々と下層の生活を余儀なくされる人々に大きく二分され、中流の人々は郊外に流出し、下層の人々は都市のスラムに取り残されることになる。そうした郊外と都市をめぐる黒人の理想については、後に映画『ストレート・アウト・オブ・ブルックリン』を取りあげたところで、詳しく語ることにする。

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 これまで主に人種差別をめぐって郊外と都市の関係について書いてきたが、当時の白人のなかにも、郊外よりも都市を選んだり、あるいは郊外に転居したものの、都市に復帰する人々が皆無だったわけではない。それは簡単にいってしまえば、都市と郊外、それぞれのライフ・スタイルの特性をどのように見るかで決まる。

 第2章で引用したパーク・フォレストのコピーには、“孤独な大都会にかわって、友情に溢れた小さな町で”という文句が含まれているが、都市の生活を孤独とみるか、あるいはプライバシーが保たれているとみるか。一方、郊外が友情に溢れているとみるか、プライバシーが侵害されているとみるかということである。もちろん、現実的には他にもっと微妙な要素がからんでくるので、これを単純に判断することはできない。移動に慣れた人々が社交を技術として体得してしまえば、親密な関係というのもそれほど抵抗を感じることはないだろう。それでも、郊外の黄金時代である50年代に、郊外から都市に復帰する人々がすでに存在していた。

 『爆発するメトロポリス』は、『組織のなかの人間』のホワイトを含む何人かの識者が、郊外の時代における都市の再開発の可能性について分析した結果をまとめた研究書で、ホワイトが書いている第1章「都市は反アメリカ的か」には、郊外から都市に復帰した人々の考え方について、こんな記述がある。

 都市内への復帰者たちは、プライバシーの確保を喜び、そして多くの人が、社会生活が前よりずっと面白くなったと言っている。彼らはプライバシーと社会生活の両方を持つことができるのである。彼らは大学時代の旧友や若い頃会社の出張で知り合った人々とよく会えるようになった。「以前は旧友たちが町を通る時、郊外の私たちの家にも訪れるようにといっても、郊外まで出てくるのは大変なことであった」と或る重役さんは言っている。友人関係はもっと選択ができるようになり、単に近くに住んでいるからというつき合いは少なくなり、共通の趣味によるつき合いが多くなる。

 後に紹介する小説や映画では、両親のどちらか(主に妻の方だ)が、郊外よりも都会の生活を好んでいるにもかかわらず、郊外に転居してきたという家族が何度となく登場してくる。転居する彼らの言い分は、きまって“子供たちのために”ということだが、この「都市は反アメリカ的か」のなかには、それとはまったく対照的な両親の意見も取り上げられている。

 街頭では多くの暴力沙汰があるにもかかわらず、多くの親たちが、郊外より都市の方が子供を育てるには良い所の筈であると信じている。そしてこのことは子供のためばかりでなく、大人にも言えることである。新しい郊外のコミュニティのように、ひとつの階層だけを対象としたものではなく、有色人種、白人、老若、貧富を問わず、あらゆる人々に子供たちを接触させる機会を得るからである。

 郊外か都市か、この問題はこれから章を追うごとに何度となく登場してくる。そのなかには、これまで明らかに都市の存在であったゲイの人々が、郊外へと浸透するといった、ふたつの世界の境界線が変貌するような展開も含まれている。

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 さて、郊外のルーツを明確にする作業はこれで終わりだが、最後にささやかなおさらいの意味もこめて、もう一度『リトル・ショップ・オブ・ホラーズ』を振り返っておきたい。

 ニューヨークのダウンタウンを舞台にしたこの映画が、ミュージカル仕立てということはすでに書いたが、登場人物たちの歌には、曲によって黒人女性3人組のバック・コーラスが入る。さすがに白人であるオードリーが郊外で暮らす夢を見る歌には、彼女たちのコーラスは入らないが、それにしても当時の郊外と黒人という観点からみると、映画をもりたてるための黒人女性のコーラスには、複雑な気分にならざるをえない。

 しかしそれゆえに、この白人カップルには“緑”の罰が準備されている(と筆者には思える)。この映画に使われる曲には、緑にまつわる曲が2曲ある。ひとつはもちろん、オードリーが歌う<緑ある所(Somewhere That’s Green)>である。そしてもうひとつは、シーモアが手に入れた悪魔的な植物が歌う<Mean Green Mother from Outerspace>という曲で、こちらは“宇宙からやって来たたちの悪いお化け植物”とでもいえばいいだろうか。

 緑にまつわるこのふたつの曲は、主人公のカップルの立場と共鳴している。オードリーが緑の向こう側に郊外の生活を夢見る一方、シーモアは気の弱さから、オードリーとは違う緑に魂を売り渡してでもダウンタウンから逃げ出そうとする。そんなふたちは結局、緑の怪物によってとことん痛い目にあわされる。安易な緑の夢は緑の悪夢に変わるというわけだ。作り手にそんな深い意図があったのかは定かでないが、筆者はひねりの効いたユーモアとして楽しませてもらった。


《参照/引用文献》
『組織のなかの人間――オーガニゼーション・マン』ウィリアム・H・ホワイト●
岡部慶三、藤永保、辻村明、佐田一彦共訳(東京創元社、1959)
『アメリカ黒人のジレンマ』上坂昇●
(明石書店、1987)
The Good Life : The Meaning of Success for the American Middle Class●
by Loren Baritz (Alfred A. Knopf, 1988)
『爆発するメトロポリス』ウィリアム・H・ホワイト他●
小島将志訳(鹿島出版会、1973)

(upload:2002/03/11)
 
 
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