第7章 変わりゆくアメリカの風景―郊外の観察者ジョン・チーヴァー
 

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(初出:東京書籍刊『サバービアの憂鬱』、1993年)
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 これまでわずかながら映画なども引用しつつ50年代の郊外の現実を探ってきたが、この章からはいよいよ本格的に郊外を描いた小説や映画を取りあげていく。

 各章は、取りあげる作家や監督の世代、作品が発表された年代、あるいは作品のなかに描かれた時代などにしたがって、基本的には時代の流れに沿うような構成になっている。但し、章のテーマによっては時代が前後することもある。たとえば、80年代と50年代の関係を探る第14章や、スティーヴン・キングとかデイヴィッド・リンチのように50年代にある種のこだわりを持った作家や監督を取りあげる章では、50年代が再びクローズアップされる。また、郊外の子供たちや郊外に進出するゲイをテーマにする章などでは、時代が重複しても異なった視点から郊外の世界が見えてくるのではないかと思う。

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 この第7章ではまずひとりの作家を掘り下げる。小説家のジョン・チーヴァーだ。チーヴァーが郊外を舞台にした短編を発表するようになったのは50年代前半のことであり、彼は小説の世界における郊外の発見者ともいえる。それまで小説の舞台といえば、都市や牧歌的な田舎町、南部などであり、郊外が舞台として選ばれることはほとんどなかった。郊外はテレビのホーム・ドラマの舞台になるのがせいぜいで、れっきとした小説とは縁がないと思われていたのだ。チーヴァーは、一見するとありふれた幸福のイメージに塗り固められたように見える郊外の世界に、実はたくさんの影があり、様々なドラマがあり、微妙な感情がうごめいていることを発見した。

 それだけにアメリカ文学史の本などをひもといてみると、チーヴァーについては、次の章に登場するジョン・アップダイクとともに、郊外の中流家庭を描く作家として、すでに評価が確立されている。しかし、これまで書いてきたような50年代の郊外に関する基礎知識を踏まえて彼の作品を振り返ってみると、文学的な評価とはまた違った意味で、彼が描く世界がリアルで興味深いものになるのではないかと思う。

 チーヴァーの作品の舞台になるシェイディ・ヒルやブリット・パーク、メープル・デル、プロクシマイア・マナーといった郊外の町は、どれもニューヨークやボストンといった都市にある職場まで列車で通勤するような場所に位置している。これらの町は、チーヴァーが実際に暮らしていたニューヨーク郊外のスカーボローやオシニングの町がモデルになっている。そうしたチーヴァー自身の郊外における生活については、また後に触れることにして、ここではまず彼がフィクションとして作り上げた町に足を踏み入れ、郊外ならではのドラマがどのようなものであるのか、少し探ってみたいと思う。

 まずは「The Housebreaker of Shady Hill」という短編を取りあげ、タイトルにあるシェイディ・ヒルの町を覗いてみることにする。主人公は妻子とともにこの町に暮らし、工場へと通勤する36歳のジョニー・ヘイク。彼は工場の責任者から、成績が悪く欠勤の多い彼の上司の家に行き、首を言い渡すように命じられる。上司の家を訪ねたヘイクは、上司の優しい人柄に同情するあまり、話を切り出すことができず、自分が会社から身を引くことで上司の首をつなぐ。

 当然のことながら彼は金に困る。シェイディ・ヒルのコミュニティに属している彼にはたくさんの友人がいる。しかし彼は、借金を頼んだりすれば友人を失うことになると考える。なぜなら、第4章で書いたように、生活の後退がコミュニティのなかで公になるということは、「彼らを一つの生活様式からほっぽりだしかねない」からだ。郊外の世界は、普段はそれぞれの家庭が外の世界よりもはるかに密接に結びついているが、生活の後退に対しては寛容ではないのだ。


《データ》
The Stories of John Cheever●
by John Cheever (Vintage, 1977/1978)
Home Before Dark●
by Susan Cheever (Pocket Books, 1984)
『橋の上の天使』ジョン・チーヴァー●
川本三郎訳 (河出書房新社、1992)
『ワップショット家の人びと』ジョン・チーヴァー●
菊池光訳 (角川書店、1972)
『ワップショット家の醜聞』ジョン・チーヴァー●
菊池光訳 (角川書店、1975)
『ブリット・パーク』ジョン・チーヴァー●
菊池光訳 (角川書店、1972)
 
 
 
 


 そんなわけで彼は、金の悩みを胸のなかにしまったまま、いつものように妻と近所のウォーバートン家のパーティに行く。そして、そこでウォーバートン夫人から聞いた話が頭に焼きついてしまう。彼女の夫のカールは、外出するときにいつも何千ドルも持ち歩いているというのだ。読者はここで、ヘイクがカールのあとをつけ、暗闇で襲いかかって金を奪うというようなことを想像するかもしれない。しかし郊外の世界に属していれば、問題は心を決めることであって、行動するのはそれほど難しいことではない。

 その晩、夜中の3時に目を覚ましたヘイクは、ウォーバートン家に忍び込み、カールの財布を持ち去る。それはあまりにも簡単なことだった。シェイディ・ヒルのようなコミュニティでは、夜中にわざわざ戸締りをする家はなく、しかも社交パーティが習慣になっているため、隣人の家のなかのことは誰もがよく知っている。だから暗闇でも、隣人の家のどこに何があるのかよくわきまえていて、音をたてずに歩き回ることができる。しかも、ウォーバートン家に忍び込んだヘイクを迎えたのは、家に飼われている犬だったが、その犬はヘイクを見ておとなしく自分の小屋に戻っていくというわけだ。

 チーヴァーの短編は、こんなふうにささやかな(この短編の場合は、比較的深刻だが)出来事がきっかけになって、主人公が自己を見直したり、馴れ親しんだ世界を異なる視点で見るようになるといった展開が少なくない。そして、どこかにいつもユーモアが漂っている。ヘイクは、郊外のコミュニティを支える不文律を破ってしまったことで罪悪感に苛まれたり、都会で起こる強盗の記事を読んで自分の行為を正当化しようと試みる。そして、盗むという言葉を聞くと顔に痙攣が走るようになる。しかし一方では、盗むことに好奇心を抱き、町の人間に出会うとその家の内部のことをあれこれ考えてしまう。そんなある晩、真夜中に別の家に忍び込もうと夜道を歩いているときに、雨が降り始める。彼は、雨に濡れながら自分の姿を思い描き、笑い出してしまう。そして夢から覚めたように、そのまま家に帰っていく。

 物語の結末も郊外の世界ならではといっていいだろう。ヘイクは、彼がかばった工場の上司から工場の責任者が死亡したことを伝えられ、彼は仕事に復帰することになり、金の都合もつく。その晩、町の最後の明かりが消えた後で、彼はこっそりウォーバートン家に忍び込み、金が入った封筒を置いてくる。家を出たところで彼は警官に呼び止められ、何をしているのかと質問される。彼は犬を散歩させていると答えて、犬の名前を呼ぶ。犬の姿はどこにも見当たらないが、警官がシェイディ・ヒルの住人のことを疑うはずもない。

 真夜中に隣人の家のなかを歩き回る主人公ヘイク。郊外では、コミュニティの不文律から逸脱すると、奇妙な世界に迷い込むことにもなるのだ。

 それでは今度は、チーヴァーの初期の短編の代表作といわれる「The Country Husband」を取りあげてみよう。主人公は、やはり妻子とシェイディ・ヒルに暮らすフランシス・ウィードだ。物語は、彼が出張の帰りにミネアポリスから乗った飛行機が、悪天候のために不時着を試みるところから始まる。旅客機は不時着に成功し、彼は列車でシェイディ・ヒルに戻ってくる。彼の心は、巷のニュースよりも早く、しかも自分の体験として家族に事故の話をすることができるという思いでわくわくしている。ところが家族は、誰ひとりとして彼の話に耳を貸そうとはしない。

 その事故の翌日、ウィード夫妻は、近所で親しくしているファーカーソン家のパーティに行く。フランシスはその家の新しいメイドに見覚えがあった。大戦が終わろうとするころ、フランスにいた彼は、彼女がドイツ人将校と暮らしていたために髪を剃られ、裸にされ、恥辱を加えられる光景を思い出した。そしてパーティの雰囲気のなかで、戦争、すなわち死や拷問といったものが隣り合わせにある世界が遠い昔のことだということを痛感したとき、彼は旅客機に乗り合わせた男たちのことを忘れていた。

 彼は誰にも話すことができなかった。かりにこの晩餐の席上で話をしていれば、それは社交的な問題にとどまらず、人間的な過ちになっていただろう。ファーカーソン家の居間に集まった人々は、ここには過去も戦争もなかった――世界には危険も問題もないという暗黙の了解で結束しているかのようだった。

 この作品は短編とはいえけっこうな長さがあり、これはその冒頭のささやかなエピソードに過ぎないのだが、主人公が自分と郊外の関係を見直すきっかけになる出来事として興味深いのではないかと思う。第6章で、共通の価値観や理想を持った人々が集まって作り上げるコミュニティでは、彼らの価値観に反するものは忘れ去られ、世界に存在しないものになるといったことを書いたが、これはそのことを思い出させるエピソードだ。そして、フランシスが不時着の話をしたとしたら、『組織のなかの人間』でパーク・フォレストの住人たちが人種問題の討論で傷ついたように、隣人たちを傷つけることになったことだろう。しかし、そのことに気づいてしまった当のフランシスは、それと同時に彼の記憶と感情の扉が開いてしまう。そして、周囲を見る彼の眼差しが変化していくのだが、その後の展開についてはまた後で触れることにしたい。

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 こうした郊外の世界をめぐる視点やドラマは、ホワイトのように郊外に関心を持った学者ででもないかぎり、外の世界からの観察で浮かび上がってくることはないだろう。実際、ジョン・チーヴァーは50年代が始まったころに、大都会ニューヨークから郊外に転居し、郊外の世界の観察者になった。それではチーヴァーは、どのようにして郊外の世界と出会うことになったのだろうか。チーヴァーの娘で、作家でもあるスーザン・チーヴァーの『Home Before Dark』は、娘の目から見た父親についての回想録であり、ジョン・チーヴァーと郊外の出会いを知るうえでとても参考になる。

 ニューヨークに暮らしていたチーヴァーが家族とともに郊外に転居したのは1951年のこと。チーヴァーは1912年生まれだから、もうすぐ40歳になとうかという時期のことだ。彼は「ニューヨーカー」に作品を発表する作家ではあったが、当時の生活はまだ決して楽とはいえなかった。郊外に転居する前にチーヴァー一家が暮らしていたのは、ニューヨークの東59丁目400番地にあるアパートで、道を隔てた向かいには、クイーンズボロー橋がかかっていた。スーザンによればここの暮らしは、橋の往来による賑やかさはなかなかのものだったが、コンサートやスポーツの試合、芝居、そしてセントラル・パークの動物園など、楽しい毎日だったようだ。

 しかし、1948年にスーザンの弟ベンが生まれたことで、生活がたいへんになってきた。スーザンによれば、「アパートが突然狭くなったようで、しかも橋が以前にも増して騒々しくなった」ということだ。そして最終的には、その橋の騒音があまりにもひどいために、1951年に郊外に転居することになった。チーヴァーが家族とともに移ったのは、ニューヨークの都心からクルマで30分ほどの距離にある郊外の町スカーボローだった。それはチーヴァーの友人が暮らしていた家で、その友人が近くに家を建てたために、チーヴァーが借りることになったのだ。チーヴァー一家の新居は、小さな白い家で、芝生と木々に囲まれ、プールもあった。

 というように、チーヴァーは作家というよりは一家の主として、生活の必要にせまられて郊外へと転居した。そしてスーザンは、スカーボローのコミュニティに溶け込んでいく両親の姿をこんなふうに綴っている。

 スカーボローでわたしの両親は、楽天的な若い夫婦たちに囲まれていた。そこには、両親と同じ時期に郊外に引っ越したむかしからの友達もいれば、パーティ、PTAや婦人有権者連盟で知り合った新しい友達もいた。(中略)そして、カクテル・パーティにディナー・パーティ、誰もがジルバを踊り、わたしの父は、わが家の中古の小型ピアノでブギウギが弾けるようになった。母は婦人有権者連盟に参加し、父は有志の消防団に入った。作家だということで、父は消防団の幹事に推された。友人や近所の人たちが、一杯やるために立ち寄ったり、昼食や夕食をともに過ごすことも珍しくなかった。ほとんどの人が煙草を吸い、誰もがきついお酒を飲んでいた。

 そんなふうにしてチーヴァーは、50年代という郊外が発展していく時期に、郊外居住者の仲間入りを果たした。このスーザンの言葉から察すると、チーヴァー夫妻もまた一般の家庭と同じように、郊外のライフ・スタイルを享受していたようだが、チーヴァーが一家の主ではなく作家として郊外の世界に関心を寄せるようになるまでには、それほど時間を必要としなかったのではないかと思う。

 というのも郊外の世界では、そのライフ・スタイルやコミュニティの不文律、家庭における役割などによって、人々がその世界の一面しか見えない、あるいは見ないようになっている。その最も端的な例は、普通の家庭では夫は朝、出勤して夕方まで戻ってこないということだろう。ホワイトの『組織のなかの人間』のなかにこんなエピソードがある。彼がインタビューのために昼間に家庭訪問した家に、夫が帰宅すると同時に電話がかかり、女の声がこういった「あなたが知っておくべきことがあります。今日の午後、一人の男がお宅にうかがい、あなたの奥さんと三時間一緒でしたよ」。そしてホワイトはこんなふうにつづける。

 配達人かお医者さんか、何かそんな人でないかぎり、昼間、郊外に入っていくと、女連中をして何かトラブルがやってきたと感じさせかねないのであり、彼女たちの防御本能が前面に出てくる――芝生に腰をおろした一群の奥さん連中がおしゃべりに花を咲かせている傍らを通ってみたまえ。彼女たちの不審の眼を非常に強く感じることだろう。

 もちろん、作家としてコミュニティに受け入れられているチーヴァーの場合には、どこをうろうろしていようが問題はない。彼には、普通の夫には見えない世界も見えてくるだろうし、妻や子供の視点に立ってこの世界を見ることも可能になるだろう。彼は、コミュニティの目に見えない境界を自由に往復することができた。そして、快適な環境、パーティやさまざまな会合など楽しさに満ちあふれた世界に、存在しないはずの影があり、世界が明るくみえればみえるほど、影の部分の闇も深いと感じたことだろう。スーザンは、郊外の世界を見つめる小説家チーヴァーの姿をこんなふうに綴っている。

 父にとって人生とは耐えがたいものであるか理解しがたいものであるかのどちらかだった。父は、郊外の女性たちが毎日、クルマで夫を駅まで送っていく姿を目にした。彼女たちは、ねまきにコートをはおった天使たちの一団であることもあったし、愛用のステーションワゴンを運転しながら、小言を言ったり金切り声をあげる復讐の女神たちになることもあった。父は、男たちが電車で帰宅する姿を目にした。彼らは、良識ある立派な紳士であることもあったし、自分で犯した好色な過ちの責任逃れをする放蕩な敗者でもあった。郊外のパーティの明かりや音楽が、美男美女が交際を楽しむ華やかな家からこぼれてくることもあれば、パーティが、不義を重ねるゴルファーと浮気性の妻たちのグロテスクな時間であることもあった。父は、友人や隣人が、自分たちのためにあまりに念入りにつくりあげてしまった快適な生活が、古代人の本能的な欲望を避けるのに効果がない防壁であることを十分に心得ていた。そんな本能が、男と女を駆りたて、彼らは、自分自身の欲望という岩にぶつかって叫び声をあげるのだ。この時代に彼が書いた小説は、ディテール、喜び、不安などがあまりにもリアルに伝わってくるために、長いあいだ、それが彼の作品のすべてであるかのように、人々の脳裏に焼きついていた。 ==> 2ページへ続く

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