第8章 アメリカン・ファミリーの亀裂

泳ぐひと/The Swimmer――――――1968年/アメリカ/カラー/95分
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(初出:東京書籍刊『サバービアの憂鬱』、1993年)
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 この本の最初から書いてきた郊外の現実は、ジョン・チーヴァーの小説をとおしてだいぶリアルで身近な具体性をおびてきたのではないかと思う。また同時に、郊外に対する関心も広がってきたことだろう。いったい郊外のコミュニティは何を作り、どこに向かおうとしているのか。個人の存在は、どうなるのか。アメリカン・ファミリーの幸福とは何なのか。

 60年代に入るとチーヴァーの作品ばかりではなく、郊外の中流を描く小説もだんだん数が増えてくる。この章では60年代に発表されたそうした作品のなかから、異なる作家の作品を何本か取りあげてみたいと思う。どれも郊外を描く作品とはいえ、郊外化の始まりからある程度時間が経過し、しかも作家が異なるだけに、50年代を振り返るものや主人公がユダヤ人であるものなど、さまざまな視点から郊外の世界が見えてくることになる。

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 最初に取りあげるのは、1926年生まれの作家リチャード・イェーツが1961年に発表した最初の長編『Revolutionary Road』である。この長編は物語のなかに本書の展開と見事に重なるような部分があり、とても興味深い作品である。ここで取りあげる小説のなかで、この作品を最初に持ってきたのは、50年代の郊外化を振り返るような視点も盛り込まれているからだ。この小説の時代は1955年に設定されている。1955年といえば、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のマーティが訪れた世界でもあり、とりあえずあのような雰囲気を念頭に置いてもらってもいいかと思う。ただし小説の内容は、この章のタイトルが暗示するように、そんな雰囲気を吹き飛ばしてしまうことになるのだが…。

 『Revolutionary Road』の舞台となるのは、ニューイングランドの州のひとつ、コネティカット州西部の町。ハイウェイが通ることになったために、沿道にあった三つの田舎町がひとつになった郊外の町である。交通網が整備されたことで急激な郊外化が進む地域といっていいだろう。主人公は、あと何日かすれば30歳になるフランクと29歳のエイプリルのホイーラー夫妻で、彼らには6歳の娘ジェニファーと4歳の息子マイケルがいて、2年前にこの町に引っ越してきた。フランクは、ニューヨークの都心にあるノックス事務機という会社で宣伝の仕事をしている。家族の年齢や構成といい、父親の職業といい、一見すると彼らは絵に描いたような郊外のアメリカン・ファミリーである。

 郊外にやって来る家族は、だいたい望んで郊外に移るものだが、この小説のフランクの場合には、2年間の生活で郊外に嫌気がさしたというよりも、最初から望んで郊外に来たのではないという気持ちが物語の前半から見え隠れしている。その気持ちは、郊外をめぐる深い問題と結びついていることがしだいに明らかになってくるのだが、まずはこの主人公夫婦の関係に亀裂を入れることになるエピソードに触れておいたほうがいいだろう。そのエピソードもまた郊外の世界とかかわりがある。

 三つの田舎町がひとつになったこの町では、新しい町のコミュニティ精神をはぐくむために演劇を選んだ。住人たちから有志をつのり、劇団を結成したのだ。フランクの妻エイプリルは、10年前にニューヨークで名の知れた演劇学校に通っていたことがあり、劇団の初舞台のヒロインに抜擢される。主婦業に退屈し、刺激を求めていた彼女は、舞台への期待に胸をふくらませるが、にわか劇団の公演はさんざんな結果に終わってしまう。

 エイプリルはひどく傷つき、この出来事がきっかけとなってフランクと言葉を交わすのを避けるようになり、夜もいっしょのベッドではなく居間のソファで眠るようになる。妻の態度の変化に頭をかかえるフランクは、劇団のことについて心のなかでこんなふうに考えていた。

 劇団のことなどは、思いわずらうほどの価値もない。教養があって、人間ができていれば、そんなことは苦もなく乗り越えられるはずだ。そういう人間は、都会の死ぬほど退屈な仕事と郊外の死ぬほど退屈な家庭という、もっとばかばかしいことをしのいでいるのだから。経済的な事情からこんな環境で生活せざるをえなくなったとしても、大切なことは汚染されないようにすることだ。重要なことは、いつも自分を冷静に見つめることなんだ。

 フランクは18歳で兵役につき、ドイツに送られた。戦後、ヨーロッパを旅してアメリカに戻り、コロンビア大学に通った。そこで、大学を卒業すればホワイトカラーとして組織のなかへ、というのが時代の流れだが、彼は大学時代から、成績は人並み以上でありながら、人間関係のなかで自分の影が薄いことに悩みを感じ、自分を発見する時間が必要だと考えていた。そんなときにあるパーティでエイプリルと出会い、彼らは結婚し、フランクが暮らしていたニューヨークのアパートにいっしょに住むことになる。そしてエイプリルは、「夫がほんとうにやりたい仕事をみつけるまで」パートで働くことにする。

 ふたりの生活は順調であるかにみえたが、エイプリルが妊娠してしまう。彼らは将来、子供ふたりの4人家族をつくる計画をたててはいたが、それはまだ何年も先のことであるはずだった。彼女は子供を堕ろす決意を固めるが、フランクが彼女を説得し、彼らの運命は変わっていく。


《データ》
「Revolutionary Road」by Richard Yates●
(Vintage Contemporaries) 1961
『レボリューショナリー・ロード』●
リチャード・イエーツ
 青木千鶴訳(早川書房、2008)
『スターン氏のはかない抵抗』●
ブルース・J・フリードマン
 沼澤洽治訳(白水社、1980)
『カップルズ』ジョン・アップダイク●
宮本陽吉訳(新潮社、1970) 1968
『言語の都市』トニー・タナー●
佐伯彰一・武藤脩二訳(白水社、1980)

―泳ぐひと―

◆スタッフ◆

監督
フランク・ペリー
Frank Perry
脚本 エレノア・ペリー
Eleanor Perry
原作 ジョン・チーヴァー
John Cheever
撮影 デイヴィッド・L・クエイド
David L. Quaid
編集 シドニー・カッツ/ カール・ラーナー/ パット・サマーセット
Sidney Katz/ Carl Lerner/ Pat Somerset
音楽 マーヴィン・ハムリッシュ
Marvin Hamlisch

◆キャスト◆

ネッド(ネディ)
バート・ランカスター
Burt Lancaster
ペギー マージ・チャンピオン
Marge Champion
ベティ キム・ハンター
Kim Hunter
 
 
 
 


 彼らの最初の子供が生まれたのは1940年代末という計算になるが、彼らが現在の郊外の町に行き着くまでの道のりをたどっていくと、50年代に両親になることは決定的な出来事で、未来につながる一本のレールが敷かれてしまうようにみえる。もちろん、すすんでそのレールに乗る人々は数知れなかったが、わずかな例外である主人公たちは、いわば押し流されるようにして郊外の世界にたどりついてしまったのだ。

子供がほしくなかったのは、彼女よりも自分のほうだった、と彼は思った。そして、その問題にたちかえってみると彼の人生がすべて、ほんとうは望んでいなかったことの連続だった、というのは真実ではなかったか? ほかの家庭的な男たちと同じように、頼りになることを証明するために死ぬほど退屈な仕事につき、健全できちんとしていることが第一だと信じる分別があることを証明するために、家賃の高い上品なアパートに移り、最初の子供が間違いではなかったことを証明するためだけにふたり目をつくり、当然の帰結である次の段階へとのぼれることを証明するために、田舎に家を買った。

 彼は、何とか郊外の父親らしく芝刈りやマイホームの補修に精をだそうと心がけるのだが、郊外の世界にリアリティを見出すことができず、精神的に追い詰められていく。しかも著者のイェーツは、小説の舞台となる郊外の町を、50年代の表層的なイメージのベールをはぎとるかのように、リアルに描写していく。たとえば、劇団のエピソードの部分で、町と新しい住人はこんなふうに描かれる。

 劇団のメンバーは、それぞれにわが家の台所から外に出て、コートのボタンをとめたり、手袋をするかどうかすこし迷うとき、あたりにわずかに残る、風雨にさらされたひどく古びた家が目につくような気がした。わが家が、重量感を失い、はかないものにみえた。自分たちの家は、一晩中外に出しっぱなしにして雨曝しにあった、たくさんのピカピカのおもちゃのように、うんざりするほど場違いなのだった。同じように、クルマもまともにはみえなかった――いたずらに幅があり、キャンディやアイスクリームのような色を振りまき、泥がはねあがるたびにたじろぐようにみえるクルマは、あらゆる方向から中心部へ、12号線の平らな舗装路につづくでこぼこ道を、言い訳でもしているようにもたもた進んだ。

 これはなかなか意味深い文章である。さきほども触れたように、この郊外の町は小さな田舎町がいっしょになったもので、建ち並ぶ新しい郊外住宅のあいだには、田舎町の時代の建物がわずかながら残っている。もちろんそうした古びた家は、土地に根をはり、歴史や伝統といったものを象徴している。そこで、“根無し草”である住人たちは、自分たちが捨て去った過去という“縦”の価値観をふと思い起こして、虚しさをおぼえる。しかも50年代には町によっては、住宅を供給するのがやっとで、道路やその他の設備などが間に合わない住宅地もすくなくなかったということだが、この町のでこぼこ道の光景は、そのことを思い出させる。そんな状況のなかで、住人たちは“横”のつながりを確かなものにするために、劇団というコミュニティの活動に力を注ぐのだ。

 そして、このような郊外の世界のなかで、横のつながりに埋没できず、虚しさに目をつぶることができないのがフランクなのだ。彼は会社の女子社員との情事に走ったりもするが、救いを見出すことはできない。しかしフランクが30歳の誕生日を迎えたとき、心の落ち着きをとりもどしたエイプリルは、彼の気持ちを受け入れ、郊外の家をひきはらい、家族でパリに移って暮らすことを提案する。

 筆者がこの小説のなかで、本書の展開と共鳴するものを感じたのは、賛同者を得たフランクが、彼を取り巻く問題について力を込めて妻に語ってきかせる場面である。この場面のフランクの言葉はこんなふうにつづいていく。

「この国全体が、感傷にひたりきっている。何年間も世代を越えて病気のように広がりつづけて、いまではまわりのあらゆるものが生気を失っているんだ」
「そんな事態に直面すれば、のんきにかまえてなんかいられないんじゃないか? 欲得とか、精神的な価値観を失うことや水爆の恐怖や、そんなもろもろのことよりもずっと大変なことじゃないのか? いや、きっとこれは、そんなことがらが招いた結果なんだ。そういうことが理解できるだけの、しっかりした教養の積み重ねもないままに、もろもろのことが同時に動きだすとこうなるんだ。とにかく、原因はどうであれ、このままでは合衆国は滅びるんだ。そうじゃないか? あらゆる知識や教養が、みさかいなく噛みくだかれて、消化のいい知的なベビーフードに変えられてしまう。そんな楽観的で、笑顔ばかりで、何も問題がないような感情が、あらゆる人間の人生観にはびこっていないか?」
「そして、男たちが結局みんな骨抜きになることに、何の不思議があるというのだ? それが現実に起こっていることだというのに。これは“適応”やら“安全”やら“強調”やらをめぐるあのたわごとの山がもたらした結果なんだ――まったく、どっちを向いても同じことだ。あのろくでもないテレビの世界では、ジョークが全部、パパはまぬけで、ママがそのあらさがしをするっていう前提でできているんだ」

 この長い引用にはあまり説明の必要もないことと思うが、まるで第6章までに書いてきたことを、ひとつの視点でコンパクトに凝縮したような文章ではないだろうか。ここには、激しい勢いで進んだ郊外化から、楽観的な消費社会、適応、安全、協調といったコミュニティの意識、そして父親の立場の変化まであらゆる要素が盛り込まれている。なかでも筆者がいちばん興味をおぼえたのは、もろもろのことが同時に動きだして、50年代の世界ができあがったというくだりである。

 この小説はあまりにも長く、これ以上ここでストーリーをたどる余裕はないが、パリ行きを直前にひかえてエイプリルが再び妊娠し、夫婦の運命は救いのない悲劇へと突き進んでいく。結局、彼らは家庭というかたちにしばられ、50年代のアメリカ社会を振り切って脱出することができないのだが、悲劇に向かうふたりの絶望的なあがきをみていると、50年代の世界がとても恐ろしいものに思えてくるのだ。

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 60年代といえば、集団のなかにおける個人の疎外といった主題から、アメリカ文学のなかで“ブラック・ユーモア”が盛り上がりをみせた時代でもある。もちろん郊外の世界も、その主題の一端を担っていることは、いまさら細かく触れるまでもないだろう。

 ユダヤ系の作家ブルース・J・フリードマンが1962年に発表した処女作『スターン氏のはかない抵抗』は、そんな郊外の世界をブラック・ユーモアで描いた作品である。大都会から白人(WASP)ばかりが暮らす郊外の町に引っ越したユダヤ人スターン氏の物語といえば、どのようなブラック・ユーモアが広がっていくのか察しがつくかもしれない。郊外におけるユダヤ人や黒人に対する差別については、第6章で触れたとおりだが、この小説はそうした状況や現実をブラック・ユーモアの題材にしているわけだ。

 しかしこの小説は同時に、ユダヤ人の自己言及的な語りをとおして、ユダヤ人に限らない中流、あるいは郊外居住者の内面にひそんでいる小市民的な感情を、皮肉な笑いを誘うように描きだす作品でもある。主人公スターン氏は、外見的にはお尻の大きな恰幅のいい人物という設定になっているが、その中身については、ウディ・アレンあたりを頭に思い浮かべると面白く読めるのではないかと思う。アレンは、周囲で起こったささやかな出来事が心のなかでしこりとなり、くよくよと悩み、さまざまな妄想にとらわれるようなキャラクターを得意としている。そんな彼の存在は、滑稽で可笑しくはあるのだが、同時にどこか切なく悲しげでもあり、しかもそのはざまにリアリティをにじませる。この小説の主人公スターン氏にも、そんなキャラクターを連想させるところがあるのだ。 ==> 2ページへ続く

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