第9章 アメリカン・ドリームの向こう側――ビル・オウエンズ、ジョイス・キャロル・オーツ

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(初出:東京書籍刊『サバービアの憂鬱』、1993年)
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 この章では“アメリカン・ドリーム”という視点から、郊外の世界をみてみたいと思う。第2章でふれたように戦後の住宅政策その他によって、郊外の生活は多くのアメリカ人にとって、手の届くところにあるアメリカン・ドリームとなった。ここでは、郊外生活をそんなアメリカン・ドリームとしてとらえるところから出発する写真家と女性作家の作品を取りあげる。彼らの写真集や作品からは、アメリカン・ドリームそのものではなく、その向こう側にある現実やドラマが浮かび上がってくることになる。

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 1973年に郊外の世界に注目した興味深い写真集が出版されている。写真家ビル・オウエンズのタイトルもずばり『Suburbia』である。この写真集はタイトルが示すように、そこに収められた写真すべてが、郊外居住者たちの生活をとらえた作品で構成されている(Bill Owens Photographer でその写真を見ることができる)。まずはこの写真集が、どのようないきさつと主旨でつくられたものなのかを明らかにするために、オウエンズ自身が書いた前書きを紹介しておこう。彼はこんなふうに書いている。

 この作品は、わたしや友人たちが生活する世界を題材にしている。1968年の秋、わたしは、(カリフォルニアの)リヴァーモアで、写真家として独立し、仕事を始めた。そして、毎日の日課をこなすうちに、たくさんの家庭と接し、3つの郊外住宅地のコミュニティで営まれる社会生活に引き込まれていった。わたしが出会った人々は、郊外のライフ・スタイルを謳歌している。彼らはアメリカン・ドリームを実現した。ホームオーナーであること、物質的な成功を手にしたことを誇りにしているのだ。
 わたしにしてみれば、何もかもがとても身近なものなのに、すべてが珍しいもののようにみえた。最初はカルチャー・ショックを受けた。そして、すべてを記録しようと、写真を撮りまくった。それからしだいに、わたしの思考と感覚がマッチするようになり、郊外住宅地のアメリカ人たちをドキュメントしていった。2年がかりだった。
 この作品に収められた写真は、わたしにとってなじみのある人々の生活をとらえている。写真にそえられたコメントから、彼らが自分たちをどう感じているかがわかる。

 この前書きの内容からは、オウエンズと彼が暮らす世界との距離について、さまざまな想像をめぐらすことができる。まず彼は、最初は郊外の生活が、写真集にまとめられるほどの題材だとは考えていなかったように思える。彼自身が(おそらくは新参者の)郊外居住者であるだけに、灯台もと暗しとでもいえばよいだろうか。

 彼の頭のなかにある郊外居住者のイメージの前提にあるのは、彼らがアメリカン・ドリームを実現した人々だということだ。もっと具体的には、おそらくあの50年代の広告の世界に近いイメージが、先入観になっていたのではないかと思う。ところが、実際に生身の郊外生活者たちの世界に入っていってみると、現実はイメージどおりではなかった。その違いの大きさについては、カルチャー・ショックという言葉が使われていることからも明らかだが、具体的なことについてはすべて写真にたくされ、それ以上の言葉はない。


《データ》
Suburbia by Bill Owens●
(Straight Arrow Books, 1973)
『贅沢な人びと』ジョイス・キャロル・オーツ●
古沢安二郎訳(早川書房、1978) 1968
『かれら』ジョイス・キャロル・オーツ●
大橋吉之輔、真野明裕訳
(角川書店、1973) 1969
American Appetites●
by Joyce Carol Oates(Picador,1989)
 
 
 
 
 


 オウエンズ自身は前書きのなかで「思考と感覚がマッチするようになり」と書いているが、実際にその写真を見ていくと、もしかすると彼自身にもイメージと現実のギャップが大きすぎて、写真集にまとめていく段階ではそのギャップが何を意味するのか、はっきりとは把握することができなかったのではないかとも思える。そして、そんなギャップを少しでも埋めるために、写真のなかの人物が「自分たちのことをどう感じているか」わかるような、本人たちのコメントをそえたのではないだろうか。

 この写真集の内容は、ほとんどが家族がわが家でどのような生活を送っているかをとらえた作品で占められている。そのなかには、引っ越ししてきたばかりで家具がなにもないリビングに立つ婦人の写真と、まったく同じ構図、同じ人物で、リビングに家具がそろっている写真を並べるというように、2年かけてつくられたという時間の経過を感じさせるものもある。郊外住宅地全体の景観をとらえた作品も3、4点収められているが、周囲を丘陵に囲まれた平地に、美しい庭つきの家々が建ちならぶ光景は、スピルバーグの『E.T.』や『ポルターガイスト』の舞台を連想させる。そうした遠景の写真には主人公が不在なので、コメントがないわけだが、1点だけ解説がそえられているものがある。背景となる郊外の発展を知る手がかりとなるので、その内容から紹介しておこう。

15年前、カリフォルニアのダブリンは、国道50号線と高速21号線の交差点だった。人口は1000人に満たなかった(ほとんど牛ばかりだった)。現在のダブリンは、州間高速自動車道の580号と680号の交差点で、人口は2万5000人を越えている。いまではガソリンスタンドが15、スーパーが6店、デパートが2店にコンビニもある。そしていまも成長をつづけている。

 オウエンズが写真家として活動を始めた68年から単純に計算して15年前というとだいたい53年。このダブリンは、50年代半ばから急速に発展し、大きな変化を遂げたわけだ。主要な幹線道路が交差することになった地域などでは、町があまりにも急激に膨張するために、後になって町全体の計画の見直しを迫られるようなところも出てくるのだが、この写真集の時代に「いまも成長を続けている」というこの町も、先が見えないまま膨張しつづけているようにも思える。

 この写真集は、3つの郊外住宅地が舞台になっていると前書きにあるので、それがダブリンの町かどうかわからないが、作品のなかに、開発のために切り倒された大木のわきを自転車に乗ったふたりの少年が通り抜ける姿をとらえた写真がある。少年は、「ぼくたちはもう家はいらない。ぼくたちの木を返してほしいんだ」とコメントしている。また、この写真集の最後のページにあるのは、鏡を利用したオウエンズ夫妻のセルフ・ポートレイトだが、それを除くと最後の2点は、野原を切り開くブルドーザーと、野原のなかにぽつんと残る雨ざらしになった小屋の写真である。コメントはそえられていないので、この2点を最後にもってきた意図は作品から察するしかないが、非常に暗示的ではある。

 この写真集からみえてくる舞台や風景についてはこれくらいにして、アメリカン・ドリームを実現した家族たちの肖像をみていくことにしよう。最初に登場するのは、夫婦が日曜の午後をバーベキューで過ごす光景をとらえた作品だ。夫は片手を妻の肩にかけ、もう一方の手で肉を焼いている。典型的な郊外の休日の風景といってよいだろう。但し、彼の腹はでっぷりと肥え、酔っぱらっているのか目がうつろで、彼女の方も失礼な表現で恐縮ではあるが、下半身が脂肪のかたまりになっている。背景も芝のある見通しのいい裏庭ではなく、家の裏にかろうじて残っているようなコンクリートの空間だ。そんな光景には、どことなく殺伐とした空気が漂っている。無理をして郊外のイメージにはまろうとして、脂肪だけがたまってしまっているような、そんな虚しさを感じるのだ。

 さらに作品をたどっていくと、もっと典型的なアメリカン・ファミリーといえるような写真にぶつかる。広々としたダイニング・キッチンを背景に、夫婦と彼らの赤ん坊をとらえた写真だ。父親は飲み物のはいったグラスを手にし、母親はスプーンで赤ん坊に食事を与えている。写真にはこんなコメントがそえられている。

わたしたちはとても幸福です。子供たちは健康で、美味しいものを食べて、こんな素敵な家があるんですから。

 この写真の場合は、その内容といい、コメントといい、何かの広告にそのまま使えそうな気がするのだが、典型的なイメージにぴたりとはまった家族の姿は、まるで蝋人形を見ているようにもうひとつ生気が感じられない。あるいはオウエンズ自身もまた、実際にできあがった写真を見ながら、こうしたギャップを感じ、夢の実態を確かめようとして2年を費やしたのかもしれない。

 そして、さきほどの“バーベキュー”の次に出てくる写真を見ると、アメリカン・ドリームの向こう側がもう少し明確にみえてくる。正面に暖炉があり、左側にある広い窓から陽光がさすリビング。右側に置かれたソファのうえで、母親が赤ん坊にミルクをやり、彼女のとなりでは小さな坊やがテレビに見入っている。その母親はこんなふうにコメントしている。

 わたしはウーマンリブに賛成するわ。女といえばいつもトイレや床をピカピカにして、元気いっぱいのおチビさんたちを育てるすごいママというイメージにはうんざりしているの。時間がかかってもいいから、子供たちとこの生活のなかで変わっていけるようになりたいと思う。家事や子供の世話は救いにならないのよ。

 この郊外の町にもじわじわとウーマンリブの波が押し寄せつつあるようだ。この母親のコメントは、とてもアメリカン・ドリームとはいいがたいが、写真に関するかぎりオウエンズは観察者に徹している。そこでこうした写真とコメントのギャップからは、オウエンズがこれまで一面的にみていた郊外のイメージの向こう側にうごめく多様な感情が浮かび上がってくることになる。

 次に紹介する写真は、コメントとの組み合わせによって、郊外の家族の奇妙な楽しみをとらえている。写真のなかでは、大きな絵がかかった壁を背景にして、夫婦が椅子にかけている。壁の絵は、むかし懐かしい紙でできた着せ替え人形の洋服がモチーフになっている。そして、こんなコメントがそえられている。

郊外には解放されるような気分があるんだ……みんなつきあいの場では郊外族の仮面をつけているけど、ほんとは何をやっているか誰もわからないのさ。

 このコメントにある郊外の解放感には微妙なものがある。郊外のコミュニティはオープンな世界で、チーヴァーの短編にもあったようにおたがいの家のなかのことまでよく知っている。それだけに住人たちは仮面をつくり、着せ替え人形の洋服のように巧みに仮面をつけかえ、秘密をつくることに奇妙な解放感を感じるのではないだろうか。

 また、郊外と人種の関係については第6章で触れたが、オウエンズのとらえた郊外には、黒人家庭とアジア人家庭の写真が1点ずつ収められていて興味をひく。この2点の写真ではそれぞれのコメントから、第6章でふれたような、郊外のコミュニティに帰属すること、自分たちの民族の伝統という過去を捨てて郊外のアメリカ人となることの喜びと苦痛が浮かび上がってくる。

 黒人家庭の写真は、コーヒーカップを持った主婦がキッチンに立っているところをとらえたもので、彼女はこのようにコメントしている。

わたしは郊外の生活をエンジョイしているわ。ここでは、子供たちのためにガール・スカウトやPTA、リトル・リーグ、サッカーがあるから。とてもさびしいのは、黒人の文化的なアイデンティティがないということ。白人の中流の郊外では、それを埋め合わせることはできないもの。ここで起こったいちばんの文化的な出来事っていったら、ふたつのデパートが開店したことね。

 この写真などは、アメリカに暮らす黒人の未来の問題をいちはやくとらえた作品といえる。公民権法の浸透は、黒人たちが中流になる機会をもたらしたが、しだいにその恩恵にあずかることのできる黒人とそうではない黒人が出てきた。そして前者は白人と同じように危険な都市から逃避し、後者は都市のスラムに取り残される。この写真の主人公は、前者の中流の黒人ということになる。彼女のコメントにかいまみられる悩みは、中流の黒人に共通した感情でもある。第6章で引用した『アメリカ黒人のジレンマ』には、このような記述がある。

ゲットーを脱出して郊外に家を持つ黒人中流階級は、アメリカにおいて黒人がどのように扱われてきたか、どんなひどい差別を受けてきたかを子供にどう教えてよいか迷っている。子供は日々の生活のなかで白人文化に触れて生活しており、黒人文化に触れる機会があまりない。黒人としてのアイデンティティや誇りをどう意識させるか。白人の黒人に対する偏見をどう教えるのか。

 これまでよりも多くの黒人家庭が郊外に暮らすことができるようになったという点では、すくなくとも黒人の地位も向上してきたわけだが、これまでの差別が根深いだけに、彼らが過去をあっさり切り捨ててコミュニティに同化することには、他の人種以上の抵抗があるはずである。

 もう一点の写真では、アジア系の家族が、ダイニング・キッチンでホット・ドッグがのった食卓を囲んでいる。写真にはこんなコメントがそえられている。

郊外に暮らしているおかげで、中華料理の食べすぎなんてありません。中華はスーパーで手に入らないから、土曜日はホット・ドッグですよ。

 言葉どおりに受けとってよいのか、しかたなくそうしているのか判断しかねるコメントだが、そこに第6章でふれたような郊外のマイノリティの複雑な心境を読みとることができる。

 この2点の写真とコメントには、人種をめぐって郊外に対するある種の異邦人的な視点がとらえられているわけだが、もう1点、完全な異邦人の視点でみられた郊外を表現した写真がある。ドラム缶のような筒状の箱を背負った浮浪者が、郊外のある家の前を横切ろうとしているところをとらえた作品だ。彼のコメントはこうだ。

連中はいいものを次から次へと捨てちまうんだ。洋服におもちゃ、壊れたトースター、レコード・プレイヤー、新築の区域だと、新しい家に合わないテーブルや椅子まで捨てちまう。エコロジーの運動なんて関係ないのさ。オレはコークの瓶で250ドル稼いだよ。ここの連中には、世の中には貧乏人がいるってことがわからないんだ。他人の苦労なんか知ったこっちゃないのさ。

 しかし、他人の苦労を考えている人間もいないわけではない。たとえば、キッチンで赤ん坊を抱き、シンクにたまった洗い物の山を見おろす主婦の写真がある。写真には、主婦のこんなコメントがそえられている。

ヴェトナムで子供たちが死んでいるというのに、こんな食器のことなど気にしてはいられないわ。

 この平穏な郊外住宅地に暮らす主婦の目に、ヴェトナム戦争は果たしてどのように映っているのだろうか。チーヴァーの「ライソン夫妻の秘密」に描かれたライソン夫人の水爆の悪夢のように、おぼろげな不安がふくらんでいくのかもしれない。

 この写真集には他にも、郊外のさまざまな家族がとらえられている。タッパーウェア・パーティのおかげで友人たちと話す機会ができたことを喜ぶ主婦、テーブルのうえに積まれた請求書の山を見ながら消費の楽しみを満喫する主婦、部屋中を鏡張りにした部屋でセックスを楽しむ夫婦、郊外が膨張しつづけるために、ハンティングの場所がしだいに遠ざかっていくことをぼやく男たちなど。

 オウエンズの写真をながめ、もう一度前書きを読み返してみると、彼はチーヴァーと同じように郊外に暮らし、写真をとおしてそこにテーマを見出した郊外の発見者であったことがわかる。しかしこの章の最初のところでも書いたように、彼の思考と感性がほんとうにマッチしていたかどうかは疑わしい。彼の思考と感性は、アメリカン・ドリームをめぐって最後まで揺れうごいているのだ。

 しかし、できあがった写真集からは、一貫したリアリティが浮かび上がってくる。オウエンズの意識がアメリカン・ドリームの手前にとどまっていることがあったとしても、カメラはそうした意識に左右されることがない。写真に刻み込まれた人々は、アメリカン・ドリームのイメージと現実のはざまで、自分が幸福であると信じていたり、あるいは信じ込もうと努力していたり、幻滅や不安を心に秘めていたり、想像とは違ったものであることを承知でそこに新しい楽しみを見出していたりする。自分が暮らす世界にカメラを向けるオウエンズも彼らと同様に揺れうごいているのだが、カメラは確かに“アメリカン・ドリームの向こう側”をとらえているのだ。   ==> 2ページへ続く

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