第9章 アメリカン・ドリームの向こう側――ビル・オウエンズ、ジョイス・キャロル・オーツ

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 それでは今度はアメリカン・ドリームをめぐって、アメリカの代表的な女性作家ジョイス・キャロル・オーツの小説を何本か取りあげてみたい。オーツの小説の主人公たちは、高級住宅地に暮らす限りなく上流に近い中流階級から、都市に暮らす下層の白人や黒人まで、様々な世界を生きている。ここで取りあげる小説の主人公たちも、その階層はさまざまだが、彼らはそれぞれに郊外をめぐるアメリカン・ドリームを実現していたり、ひたすら追い求めている。彼らのアメリカン・ドリームは、オウエンズの写真集から見えてくるような身近なものではなく、それだけに登場人物たちは異様なほど激しい欲望にとらわれていく。そんな彼らは、外部から彼らを動かし、運命を支配していくような社会的な要因と彼らを内側から動かすアメリカン・ドリームへの憧れのはざまで引き裂かれていくことになる。

 ここで最初に取りあげるのは、アップダイクの『カップルズ』と同じ1968年に発表された『贅沢な人びと』である。この小説の時代設定は60年代だが、そこに描かれる家族は郊外に暮らしているとはいえ、これまで取りあげてきた家族とはまったく違うし、第6章までにたくわえた基礎知識が、遠い背景のように思えてくるところがある。



 この小説に描かれるのは、限りなく上流に近い生活を送る上層中流階級の家族の物語である。彼らは両親とひとり息子の3人家族だ。少年の父親はある鉄鋼会社の社長で、彼はかつて大学を中退し、さまざまな職業を転々としたあげくに現在の成功を手にした。母親のナダはロシア系アメリカ人で、作家として小説を発表している。彼らが暮らす郊外は、これまでの郊外とだいぶ異質な世界だが、舞台のことを語るまえに、小説全体の構成にふれておくべきだろう。

 物語の語り手はひとり息子の少年である。この少年の第一声は、「ぼくは子供の殺人者であった」という言葉ではじまる。この小説は、彼がいかにして殺人者となっていったのかを綴る手記、あるいは回想録のようなものである。そして、この書き出しからも察せられるかもしれないが、少年は、まったくの他人であるかのように両親の説明をはじめ、郊外の生活を不気味なほど冷静な眼差しで克明に綴っていく。「ぼくは諸君に、どぎまぎしないで、すべてを見て、すべてを感じてもらいたいと思っているのである」「そのほかに諸君は何を知る必要があるだろう?」といった語りかけるような調子で、読者を郊外の世界に引き込んでいくのだ。

 それでは、この小説の冒頭で少年の家族が引っ越してくることになるファーンウッドの町がどのような世界なのか、語り手の少年の言葉をかりて明らかにしてみよう。

 ぼくはわざわざファーンウッドの町を説明しなければならないだろうか? それとも諸君はこの町を想像できるだろうか? ファーンウッドと、ブルックフィールドと、シーダー・グローブと、シャーロット・ポイントは、もともと街から一番遠く離れた郊外の町なのである。しかしそれらが一番現代風な郊外の町だと考えるような、思い違いをしないでほしい。そうなのだ、それらは一番旧弊な町なのだ。それらはいわゆる“田舎”であり、そこには過去の田舎風な邸が、馬車で行くなら何十マイルと離れたところに、街の金持ちのために造られていたのである。もちろん現在ではこうした郊外と街のあいだには、誰でも知っているような、ああいったばかばかしい、いわゆる新興の町々や村々ができていて、さっぱりした、世間体のいい家々が幾列にも並び、迷路のような住宅開発会社の建てた淡黄色の煉瓦建ての家々が、更に迷路のような家々につながり、そのすべての家々は法外に高価にもかかわらず、樹木は一本もなく、まさに明日のスラムの観を呈している。そんなものはくたばってしまえばいいのだ。“田舎”とは、確実な直観を持ち、それよりさらに確実な銀行口座を持っている父が、いつもぼくたちを連れて引っ越していくところである。というのは、金銭以上の何もこの世界では要求されていないからである。

 この郊外育ちの少年は、両親の価値観にかなり毒されているのだが、とにかくこの家族が暮らす世界がこれまでの郊外とまったく異質な世界であることが、この引用で明確になっただろう。これまでの郊外は「ああいったばかばかしい」という形容でかたづけられてしまう世界なのだ。「いつもぼくたちを連れて引っ越していくところ」という言葉からもわかるように、彼らは頻繁に転居を繰り返し、中流の階段のかなり上の部分をさらに登りつづけている。また、50年代以降の郊外化とこの引用を照らし合わせてみるならば、彼らは膨張する新しい中流に取り込まれることを嫌い、郊外を奥へ奥へと向かっているといえる。

 アップダイクの『カップルズ』で上層中流階級の家庭に育ったアップルビイやスミスは、両親の世代に対するささやかな反発から、形式ばらない開放的なコミュニティを作ったが、『贅沢な人びと』の家族はそれとは逆に、かぎりなく上流に近い世界に食い込んでいこうとする。それが彼らのアメリカン・ドリームなのだ。彼らはまるで均質化を逃れ、階級意識を求めるかのように、上へ向かう。その先にあるのはもちろん、揺るぎない上流の世界である。ファーンウッドの家々で開かれるパーティにおける母親の姿には、息子が哀れみをもよおすような階級に対するコンプレックスが浮かび上がってくる。

 もし、ここの人たちが、彼女がものを書いているということを一度でも口に出すと、彼女はすばらしい肩の一方をそびやかし、にっこり笑ってすぐ話題を変えてしまうのであった。彼女はここの人たちの前に卑下して自分を無にすることを何よりも望んだ。ここの人たちこそ、彼女が世の中で感心している唯一の人たちだったからである。彼女はここの人たちと、とうてい太刀打ちできなかった。ここの人たちすべてのなかで、一番無知な、一番ひとりよがりの、一番醜い中年の貴婦人にも、ナダは圧倒されてしまうのであった。その理由はただ単に――その理由を当ててみたまえ――その婦人は一度もトーマス・マンを読んだことがないし、そんな名前も聞いたことがないし、しかも自分の無知をいささかも残念がる気配も見せないからである。

 金で手に入れられるものはすべて手に入れて階段を登りつめた母親は、もはや金や教養といったものが何ら意味をなさない世界にたどり着いて、コンプレックスを感じることに奇妙な満足感を覚えている。これは、はたからみるとひどくもの悲しい姿である。そして語り手である少年は、ある意味では無重力ともいえる世界のなかで、いったい自分が何者なのかということを認識できなくなっていく。彼のまわりには、すでにアル中になっている少年もいる。

 ファーンウッドは地所の境界線や、鑑定人の書類や、権利証書や、権利説明書や、来歴や、家柄の世界である。そしてこうした邸で、人々のやっていることは――一体何をやっているのだろう? 彼らは生活しているのだろうか? 本当に生きているのだろうか?
 もし神が楽園のことを言われたとしたら、それはファーンウッドを念頭において言われたものであろう。というのは、ファーンウッドは欲望が感じられさえしないうちに、すべての欲望に応えるように建てられた楽園だからである。

 欲望すら感じられない世界のなかで、母親は、「自由には何も個人的なものなんかないのよ。決して個人的な何者もないのよ」という言葉を口癖にし、家出を繰り返す。自分を認識できない少年、個人的なものはないという母親。ここにはもう家族を家族としてつなぎとめる重力すら存在していない。そこで彼らは、重力を取り戻そうとでもするかのように、消費に精を出す。シーダー・グローブというさらに奥の町に移った彼らが、電気、ガス会社ばかりでなく、芝生やプールの補修サービス会社、医者や薬局、高級食料品店などに次々と電話をかけまくり、注文品を延々と並べたてる(小説では、1ページ近くにわたって商品の名前が列記される)姿はヒステリックですらある。

 しかし最後に彼らをつなぎとめるのは、消費ではなくおたがいをスパイするような生活だった。少年は図書館で母親の新しい短編小説を密かに読む。それは「痴漢」という作品で、彼はその登場人物である痴漢にあう少女に自分を重ね、母親が自分を痴漢的な眼差しで眺め、その罪悪感からこの小説を書いたのではないかと考えるようになる。一方で彼は、母親の監視をはじめ、クローゼットのなかにひそんで母親の浮気を目撃する。彼は、通信販売でライフル銃を密かに購入し、浮気の相手を狙撃し、人目をしのんで郊外の町をうろつく狙撃者となる。そしてついには、母親を射殺し、“子供の殺人者”となるのだ。

 郊外の世界を移動する生活が、上へと向かう一方通行に階段になっているのはすでに書いたが、この小説からはその階段が終わる場所をリアルに感じとることができる。

***

 オーツが『贅沢な人びと』につづいて発表し、全米図書賞を受賞した『かれら』は、デトロイトの大都会を舞台にした白人の下層の親子二代にわたる物語であり、一見すると郊外とは無縁の作品のように見える。『贅沢な人びと』の舞台が、金だけがものをいう高級住宅地であるなら、『かれら』の舞台は、やはり金だけがものをいうゆえに、そこに暮らさざるをえないようなスラム化しつつある都市部である。そういう意味では、ふたつの小説の登場人物たちは、対極にある暮らしを送っている。そして対極にあるがゆえに、郊外の生活に対する強烈な欲望が登場人物を支配する展開が後半に準備され、それがこの物語からみえてくるアメリカン・ドリームになる。

 二世代にわたる物語は、1937年8月の暑い夕暮れに始まり、67年の夏に幕を閉じる。かなり長い作品だが、筆者が郊外とアメリカン・ドリームをめぐって特に注目したいのは、いまも書いたその後半部分、二世代目の物語だ。主人公は兄のジュールズと妹のモーリーンで、彼らはデトロイトの都市部で両親と同じような運命を背負い、下層の白人として出口のない生活を送っている。しかし50年代半ばに彼らが物心つく年になると、しだいに郊外の生活や価値観とかかわりを持つようになる。オーツの小説は、社会的な背景が主人公を突きうごかしていく要素が多分にあるが、彼らはまるで50年代から60年代にかけての都市と郊外の力学に振り回されていくようにみえる。

 兄のジュールズは、偶然のなりゆきからバーナードという謎めいた男の運転手を引き受けることになり、男の姪にあたる少女ナディーンと彼女が暮らす郊外の町グロス・ポイントに宿命的といえるほどに引かれていく。グロス・ポイントに対するジュールズの眼差しには、都市と郊外の深い溝が浮き彫りにされている。

彼はたとえ回り道になる場合でもグロス・ポイントに引き寄せられた。グロス・ポイントは、彼にとって常緑樹と煉瓦で作られた楽園だった。そこには窓を狙撃するような人間はひとりもいないし、ドアには鍵がかかっていなかった。

この土地では丸十二か月間これといった犯罪は起きていないと、彼は前に新聞で読んだことがあったが、それは彼の目からすると奇異な感じがしてたぶん誤報だろうと思えた。しかし、それにしてもナディーンはなんて素晴らしい世界に生きているんだろう!

 ジュールズがひかれているのは、ナディーン本人というよりは彼女が暮らす世界なのだ。黒人が続々と流入し、緊迫感をますデトロイトの都市部に暮らす彼は、対極にある世界に吸い寄せられていくのだ。そしてこの対極の世界が、彼に夢と目的を与えるといってもいいだろう。

何にしても金儲けをしよう、と彼は思った。金儲けのどこが悪い? 百万ドル? おれには上に向かう以外に方向はないんだ……何もかも、アメリカのすべてがおれより高いところにあるんだ……上にあがっていきながらそのすべてを求めてどこが悪い? 三十歳になる前に百万ドル作って、このナディーン・グリーンという娘と結婚しよう、そう彼は思った。

 これがジュールズにとってのアメリカン・ドリームなのだ。それではジュールズが郊外の世界の象徴として憧れるナディーンが、どのような少女なのかといえば、著者のオーツは、彼女の存在にも郊外の世界を、しかも重く背負わせている。彼女は『贅沢な人びと』の語り手の少年を思わせるような、自分の殻に閉じこもった少女である。たとえば、「あたしはもうすぐ十七になるとこだけど、ほんとはあたしのほうが母よりも年取ってるの」とか「あたし、人が自分とは違う言葉を話すところで暮らしたいの、誰にもあたしに話しかけることができないし、あたしもみんなに話しかけることができないようにね」といった彼女の言葉がそれを物語っている。そして彼女はすでに二度家出を試みていた。

 ふたりはお互いにひきつけられていくが、その関係は悲劇的な結末をまねく。このジュールズとナディーンの関係は、ひとりの男とひとりの女の関係というよりも、それぞれに貧困にあえぐ都会と空虚な郊外を憎悪する感情のつながりを意味する。都市と郊外の深いところにある暗く激しい感情が、その距離ゆえに強くひかれあいながら、しかし決してひとつに同化することはないのだ。

 一方、ジュールズの妹モーリーンは、兄と同じように都会の出口のない生活のなかで、売春や継父の暴力といった辛酸をなめ、ひとつの思いが執念へと変化していく。ここで注目しておく必要があるのは、この小説が書かれるきっかけだ。著者のオーツは、デトロイトの大学で教鞭をとっているときに実際にモーリーン・ウェルダンに出会い、手紙のやりとりをするようになった。オーツは彼女の人生に興味をおぼえ、しまいにはのめり込み、この小説を書きあげた。この小説には、モーリーンがオーツに手紙を書いている部分も描かれている。すでにさまざまな経験をへて自分を老婆のように感じているモーリーンは、そのなかで現在の自分の願望をこのようにしたためるのである。

わたしはあなたのようになりたいわけではなく、自分をこんなふうに思いたいんです――ランチ・ハウスなりコロニアル・ハウスなり、とにかく裏手に塀をめぐらした郊外の住宅に住んで、たぶんスラックスか何かをはいて台所に立ち働き、赤ん坊は専用のベビー・ベッドに寝ている、各部屋には薄い紗のような白いカーテンが垂れ下がり、夫とわたしのための寝室もあって、居間の窓は庭の芝生越しに道路と向かいの家に面している。わたしの体の中の細胞が残らずこういったものを求めて疼くんです!
 目がそれを見たがってうずうずしています、眼窩の中で目玉がそれをほしがって疼いているんです! ああ、わたしはどれほどそんな家とそんな男性がほしいと思っているか知れやしません、その男性が誰だろうとかまやしない

 ジュールズが少女本人ではなく彼女の世界を見つめていたように、モーリーンもまた相手よりも、都市の彼方にある生活に強烈な欲望を感じているのだ。しかも彼女のアメリカン・ドリームともいえるこの手紙の文面が不気味なのは、そこにある郊外生活のイメージが、まるで雑誌の広告からみえる生活の断片をかき集めてつくりあげたかのように、あまりにも画一的で生気が感じられないことだ。この手紙からみえてくる郊外生活は、『リトル・ショップ・オブ・ホラーズ』のオードリーの歌の歌詞によく似ている。あの歌には書き割りの薄っぺらな郊外のイメージがよく似合っていたが、モーリーンはそんな表層的な中流の生活のなかに埋没することができれば、あとはどうでもかまわないというのだ。

 これは都市の絶望的な状況を物語るような欲望である。結局彼女は、妻子ある大学教授に狙いをさだめ、誘惑し、彼の家庭を破壊し、理想より貧しくはあったが間違いなく自分の家庭を手にする。そして小説は、67年にデトロイトで起こった黒人の暴動をひとつのクライマックスとし、結末へと向かっていく。ここでは『かれら』という小説を全体としてとらえてみたわけではないが、これまで取りあげてきた小説とは明らかに異質な、都市から郊外をみる視点が浮き彫りにされ、興味深いのではないかと思う。

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 『贅沢な人びと』と『かれら』の2作品で、オーツが、階層にかかわらず主人公を駆り立てていくような過剰な上昇志向にこだわりを持っていることがおわかりいただけただろう。彼女はこれまでにすでに20作近い長編を発表し、すべてにそうしたこだわりがみられるというわけではないが、最後に比較的新しい作品のなかから、89年に発表された『American Appetites』に注目してみたい。

 この作品は、アメリカン・ドリームを実現した生活を送る夫婦が、ひとつひとつでは決定的な要因とはなりえない出来事が重なることによって、崩壊にいたる物語である。主人公が上層中流階級という設定や家族の人間が被害者と加害者になる展開などは『贅沢な人びと』に通じるものがあるし、都市と郊外のよじれた関係という意味では『かれら』にも通じている。

 時代は1987年で、主人公のイアンとグリニスのマックロー夫妻は、上層中流階級の人々が暮らすニューヨーク郊外のコミュニティに属している。彼らは結婚して26年。夫のイアンは有名な社会科学関係の調査機関に身をおき、妻のグリニスは料理の分野のエキスパートで、本の執筆もしている。週末のパーティは社交の輪を広げ、彼らはコミュニティの信望もあつい。絵に描いたアメリカン・ドリームの生活であり、彼らの場合は過剰な上昇志向にとらわれているわけでもない。

 イアンの仕事はいかにもオーツらしい設定だといえる。彼女の作品には、登場人物たちをとりまくさまざまな社会的状況が克明に描きこまれているが、イアンの仕事もそれに通じるものがある。彼は最近になって、国家の医療機関が出資する人口統計学の調査の責任者となり、年齢や職業、経済状態、地理的な移動、犯罪、死といった要素のあいだにある相関関係を調査している。つまり彼は、社会学的な要因と人間の運命との関係を探っているのである。

 この物語の皮肉なところは、そんな仕事にたずさわる主人公が、予測不可能な運命に巻き込まれ、想像もしなかった悲劇を目の当たりにするということだ。それは80年代という時代とも深いかかわりを持っている。レーガン政権の政策によって社会は保守化し、貧富の差が拡大していたからだ。

 悲劇のきっかけになるのは、イアンのオフィスにかかってきた1本の電話だ。相手は妻の友人で彼とは決して親しいとはいえない若い女性シグリット・ハントで、彼は突然、助けを求められる。彼女はイアンのコミュニティに比べるとひどく貧相なアパートに暮らし、妊娠していたうえに恋人との仲がこじれ、薬づけの状態になっていた。イアンは彼女の意向にしたがい、子供の堕ろすためのお金として1000ドルの小切手をきる。

 その数ヵ月後、妻のグリニスがシグリットにあててきられた使用済小切手を発見してしまうことから、彼らのアメリカン・ドリームに取り返しのつかない亀裂が入ってしまう。彼女は夫を追い払うためにステーキ・ナイフを振り回し、ヒステリー状態におちいって、夫の顔や指を傷つける。夫は身を守るために、彼女を突き飛ばす。彼女は巨大な窓ガラスに激突して、それを突き破り、テラスに倒れこむ。そして昏睡状態におちいり、一度も意識が戻ることなく死亡してしまう。イアンは殺人犯として逮捕される。

 しかし、妻をヒステリー状態に追いやった要因は、必ずしも小切手の問題だけではない。彼女は豊かな生活のなかで不安をかかえ、また、小切手から連想するような出来事を自分自身のものとして胸に秘めてもいた。彼らの家は妻の希望でガラスを大胆に使って設計されていたが、何ヶ月か前の深夜、何者かが家に押し入ろうとしたことがあった。奥まったところにある寝室で眠っていた彼女は、ヘイゼルトンがブロンクスに変わってしまったように表のドアを激しく叩く音に、このガラスの家は自分たちを守るものがなにもないという恐怖を感じていた。彼女には、コミュニティのなかで最も親しい夫婦の夫と情事をかさねていた時期があったが、大人の火遊びとして後始末をしていた。

 一方、シグリットがなぜイアンに助けを求めたのかは、小説の結末で明らかにされる。彼女は、裁判で不利な立場に追い込まれたイアンを救うために、法廷の証言台に立ち、彼女の長い答弁から理由が明確になっていく。イアンやグリニスのような人種に対する憧れ、羨望、そして憎悪が入り混じり、そんな予測不可能な要因がシグリットにイアンを選ばせたのである。その予測不可能な要因は、家庭やコミュニティにひそむ細々としたわだかまりをひとつに結びつけ、非のうちどころがないほど完璧に見えたアメリカン・ドリームは、まるでガラスの夢であったかのように、もろくも崩れ去っていくのだ。


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《関連リンク》
Bill Owens Photographer ■
A Joyce Carol Oates Home Page ■
The New York Times/Featured Author/Joyce Carol Oates ■

サバービアの憂鬱 第10章 郊外住宅地の夜空に飛来するUFO ■
ニューヨークの表層化と再生の息吹 ■


(upload:2002/03/24)

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