第13章 中流の生活を見つめるミニマリズムの作家たち

line
(初出:東京書籍刊『サバービアの憂鬱』、1993年)

 アメリカ文学においてミニマリズムと呼ばれた表現スタイルは、80年代に入ってある種のトレンドとしてあっという間に広がり、消費され、気がついてみると軽蔑や批判の対象になっていたという印象がある。それはともかくとして、ミニマリズムの作家といわれるレイモンド・カーヴァーやアン・ビーティ、あるいは、もっと新しい世代に属するデイヴィッド・レーヴィットなどは、その作品が次々と翻訳され、日本でもよく知られている。

 本書は文学の専門書ではないので、ミニマリズムの定義といったお堅い話ははぶくが、いまあげたような作家たちの作品では、アメリカの中流階級のごくごく身近な日常が描かれる。第8章のアップダイクの紹介のところで、「アメリカの大部分の小説家が、中産階級をリアリティを持たぬ不毛の領域と見なしていると思われる時代において、彼(アップダイク)は中産階級の生活はアメリカ文学で一般に認められている以上に複雑であると主張し」というトニー・タナーの言葉を引用したが、時代は変わり、ミニマリズムに限っていえば、アメリカの中流階級の生活こそが主題であるといっても過言ではない。

 そういう意味では、ミニマリズムの作家たちは、チーヴァーやアップダイクなどの主題を引き継ぐ作家たちといえる。但し、チーヴァーやアップダイク、あるいはこれまで本書でとりあげてきた作家たちの作品とミニマリズムの作品では、郊外の世界に対するスタンスが明らかに異なる。簡単にいえば、ミニマリズムの作家たちは、郊外の世界を新たな視点から見たり、その世界が想像するよりももっと複雑であることをあらためて証明したり、郊外化をとおして価値観やアメリカ社会の変貌を浮き彫りにしたり、あるいは、アメリカン・ドリームとしての郊外生活の向こう側を照らしだすということはあまりない。彼らは、すでに定着し、さまざまな批判を浴びたり、問題をかかえながらも変化することなくつづく中流階級の生活を、日常としてありのままに受け入れるところから出発している。事件が起きてもほとんどの場合、それは大した事件ではない。むしろ、ささやかな出来事というべきだろう。何かが変化するかといえば、おそらく表面的にはなにも変わることがない。ある意味では、さきほどのトニー・タナーの引用のなかにあった“不毛”という言葉がふさわしいのかもしれない。しかしとにかくそこに“リアリティ”はあるのだ。

 そんなふうに中流階級の生活を描く作家は、いまのアメリカではかなりの数にのぼるが、それはアメリカン・ファミリー、あるいはアメリカン・ウェイ・オブ・ライフのイメージがあまりにも深く浸透し、硬直しつつあることを逆説的に物語ってもいる。

***

 ここまでの前置きでは、ミニマリズムの作家たちの作品がどれも似たり寄ったりのような印象を与えかねないが、ミニマルな世界を扱っているとはいえそれぞれにはっきりとした違いがある。アン・ビーティやデイヴィッド・レーヴィットなどは、作品からそれぞれの世代の感性が浮かび上がってくる。ビーティの場合は、彼女の世代の深い喪失感と好みがはっきりわかれるほど硬質な文体が際立ち、レーヴィットの場合は、喪失以後の世代の視点を持ち、さらにゲイの視点も絡んでくる。一方、レイモンド・カーヴァーの場合は、世代や時代といった枠から自由なところで、中流階級の人々の心の闇を見つめている。

 カーヴァーについてはさまざまな短編を翻訳で読むことができるが、本書はアメリカの郊外生活を主題にしているので、とりあげる作品もある程度かたよっていることをあらかじめお断りしておきたい。筆者がカーヴァーの作品を読んでいてまず興味をひかれるのは、中流階級のなかでも下層よりの人々を扱った短編だ。

 その登場人物たちは、あたりまえのように仕事をし、結婚し、子供が生まれ、アメリカン・ファミリーをかたちづくっていく。彼らにとって娯楽といえば、むかしの仲間たちと会って酒を飲んだり、ビリヤードをやりにいくといったところだ。彼らはもちろん、アメリカン・ファミリーのイメージのなかにあるが、カーヴァーの文章から浮かび上がる彼らの日常には、ざらざらとした感触があり、イメージにも軋みがある。そして、ささやかな出来事がきっかけとなって、彼らは、軋みながらもそこから逃れようのない、いかんともしがたい感情にさいなまれる。そうした作品では、“流されている”とか“もはや変化することなどできない”というような表現が目立つ。また、こうした感情は時として、ジョイス・キャロル・オーツなどとはまったく異質な底知れぬ暴力の予感や不安、あるいは現実の突発的な暴力を招き寄せてしまう。

 たとえば、日本で最初に翻訳されたカーヴァーの短編集『ぼくが電話をかけている場所』に収められた「出かけるって女たちに言ってくるよ」という短編は、本書の流れを念頭において読むと興味深いのではないかと思う。主人公はビルとジェリーという幼なじみの親友で、作品の前半部分では、50年代から60年代にかけての彼らの交流が綴られていく。大学時代にはお金を出し合って真っ赤な54年型のプリムスを買ったり、エルヴィスやビル・ヘイリーとコメッツを聴いた。やがてふたりのなかでもジェリーの方が、アメリカン・ファミリーの階段を駆け上がっていく。



《データ》
『ぼくが電話をかけている場所』●
レイモンド・カーヴァー
村上春樹訳(中央公論社、1983年)

『夜になると鮭は…』●
レイモンド・カーヴァー
村上春樹訳(中央公論社、1985年)

『ささやかだけれど、役に立つこと』●
レイモンド・カーヴァー
村上春樹訳(中央公論者、1989年)

『ファミリー・ダンシング』●
デイヴィッド・レーヴィット
井上一馬訳(河出書房新社、1988年)
 
 

 
 
 
 
 


 ジェリーは学生結婚し、大学をドロップアウトし、スーパーマーケットに就職し、親友のビルが結婚したときにはすでに幸福な2児の父親で、スーパーの副支配人への道を歩んでいた(そんな彼を見て、ビルは、22歳にしてはあまりにも老けすぎているなと思う)。ジェリーは、川を見下ろす丘の上に家をかまえ、休日には子供たちを組み立てプールで水遊びさせ、ビルの夫婦を呼んでホットドッグやバーベキュー食べながら楽しく過ごす。典型的なアメリカン・ファミリーの日常といっていいだろう。

 そんなある日曜日、沈み込んでいたジェリーは、ビルを誘い、女たちを残してクルマで息抜きに出る。ビールを飲んでビリヤードをした帰り道、彼らは、自転車に乗った女の子の二人組を目にする。ジェリーは女たちをナンパしようと思いたち、クルマを降りて山の小径まで女たちの後をつけていく。ジェリーとビルは途中でふたてに分かれるが、一服しようとしたビルは、女たちとジェリーの予想もしない光景を目にすることになる。短編の最後はこんなふうに締めくくられる。

 ビルはただ女とやりたかっただけだった。あるいは裸にするだけでもよかった。でももし駄目でも、それはそれでまあいいさと思っていた。
 ジェリーが何を求めているのか、ビルにはわからなかった。しかしそれは石で始まって、石で片がついた。ジェリーはどちらの娘に対しても同じ石を使った。最初がシャロンという名の娘で、ビルが頂くことになっていた娘があとだった。

 アメリカン・ファミリーの幸福そうな生活と突発的な暴力の落差、そのはざまには深い深い闇が横たわっている。さきほどカーヴァーについては、その世界が世代や時代の枠から自由なところにあると書いたが、この短編では珍しく、時代を象徴するような固有名詞が盛り込まれている。しかしこれは、ある世代を描くためにというよりは、アメリカン・ファミリーの無垢な時代を暗示するために使われているのだろう。そして他の短編では、こうした表現はほとんど影をひそめ、もっとほんとうに小さな世界が切りとられている。そういう意味ではこの短編はすこし異色な気もするが、アメリカン・ファミリーの全体像に対する彼の眼差しをかいま見ることができるようで興味深い。そしてだからこそ、この作品では、他の作品のように暴力性の暗示や予感にとどまらず、現実の突発的な暴力でけりをつけざるをえなかったようにも思えるのだ。

 カーヴァーの他の短編では、物語が登場人物の人生を決定的に変えてしまうような出来事へと発展することはほとんどない。登場人物たちに起こるささやかな出来事は、むしろ逆の意味で、彼らの状況が“決定的”であることを証明するのだ。

 たとえば、邦訳では『夜になると鮭は…』に収められている「犬を捨てる」という短編。エアロジェット社で働き、妻と子供たちを養う31歳の主人公アルの人生は、好ましからざる方向へと進んでいる。彼は妻にせがまれて、家賃が200ドルの立派な家に引っ越したが、その3ヶ月後に会社の一時解雇が始まり、彼もいつ解雇者のリストに名前が載るかわかったものではない。しかも彼は浮気をしていて、それもどう処理していいのかわからない。そんなアルの気持ちは、こんなふうに描写される。

 アルは流れのままに漂っていたし、そのことは自分でもよくわかっていた。そしてその流れが最終的に彼をどこにつれていくことになるのか見当もつかない。しかし彼はすべてに対して自分がコントロールする力を失いつつあることを感じはじめていた。すべてに対してだ。

 そんなふうに感じるのは、家族を養う男たちばかりではない。『ぼくが電話をかけている場所』に収められた「足もとに流れる深い川」の主人公はクレアという主婦で、彼女を語り手として物語が進む。彼女の夫のスチュアートは、仲間3人と金曜日に釣りに出かけ、川に浮かんでいる裸の娘の死体を発見する。彼らは話し合いの末、娘の死体を流されないようにひもで木の根にくくりつけ、そのまま土曜日を釣りをして過ごし、日曜日に帰る途中で保安官事務所に連絡する。家に戻った夫から、翌朝になってその話を聞かされた彼女は、まるで夫が他人になったかのように深い溝を感じる。彼女はこんなふうに考える。

 ふたつのことが明らかだった。(1)他人に何が起ころうがべつに関係ない、とみんな思っている。(2)何かが真に変化することなどもはやありえない。事件が起こった。それでもスチュアートと私とのあいだには変化なんてないだろう。私の言っているのはほんとうの変化のことだ。私たちはふたりとも年を取っていく。たとえば、朝一緒に洗面所を使っている時なんか、鏡でお互いの顔を見ると、それはもうはっきりわかる。そしてそれにつれて私たちのまわりで幾つかの物ごとが変化していくだろう。楽になることもあれば、厳しくなることもある。それは様々だ。でも物事のありようはこれ以上何ひとつとして変わりはしないだろう。私はそう思う。我々は既に決定を下し、我々の人生はすでに動きだしてしまったのだ。そしてそれはしかるべき時がくるまで蜒々と動きつづけるだろう。しかしもしそれがそうだとして、それでどうなると言うのだ? つまりあなたはそうとは知りながら、そしらぬふりをして日々を送っている。ところがある日事件が起こる。それは何かを変化させてしまうはずの事件だ。それなのに、まわりを見まわしてみれば、何ひとつ変わろうとはしていない。

 決定的なのは、何かを変えてしまう出来事ではなく、すべてに対してコントロールを失って流されていることであり、何かが真に変化することなどありえないということだ。こうした登場人物たちは、みんなほんとうに普通の人々である。普通に学校を出て、就職し、異性と出会い、そして結婚する。何かトラウマを背負っていて、ささやかな出来事からそれが表に出てくるということもない。むしろ、過去の記憶すらすでにひどく不確かなものになっている。「過去はぼんやりしている。古い日々の上に薄い膜がかぶっているみたいだ」とクレアは振りかえる。そして、ぼんやりした過去のなかでも、さらに不確かな時期がある。

少したってから二人は結婚することになる。しかし過去――彼女の過去はその頃から既にこぼれ落ちるように薄らいでいく。未来のことを想像するなんて、彼女にはできない。未来について考えるたびに、彼女はまるで何か秘密でも抱いているみたいに微笑む。結婚して五年ばかりたったころ、どんな原因だったのかは思いだせないのだが、二人はかなりはげしい口論をした。夫はその時「この事件はきっと暴力沙汰でけりがつくぜ」(「この事件」という言葉を彼は使った)と言った。彼女はこのことばをずっと覚えている。彼女はそれをやすりでもかけるみたいにきちんと磨きあげ、時々口に出して言ってみる。

 「暴力沙汰でけりがつく」という言葉には、カーヴァーならではの独特の響きがある。この家庭はけっしてうまくいっていないわけではない。夫は昇進、昇給し、妻専用に2台目のクルマとしてステーションワゴンも買ったし、新しい家にも引っ越した。そして夫は暇があれば、ボーリングやトランブ遊びで過ごし、仲間と釣りに行く。しかしクレアは、そんなアメリカン・ファミリーの生活のなかで、すべてがすでに決定され、真の変化はありえないと思う。では、そのかたちに深くはまりこんだ出発点はといえば、その記憶はこぼれ落ちてしまっているのだ。

 カーヴァーの描く郊外の中流階級の人々は、もともとアメリカン・ドリームといったたいそうな期待を持っているようには思えない。必ずしも広告やテレビのホームドラマの世界に憧れ、そのイメージのなかに自分たちも入っていこうとしたわけではない。彼らはそういうことが当たり前となった世界のなかで、当たり前のようにそうした生活に入っていった。そして時間が経ってから、ささやかな出来事がきっかけとなって、これまで気づくことがなかったアメリカン・ファミリーの強固な枠組みにしっかりと組み込まれていることがわかってくる。しかしその枠組みに気づく頃には、すでにまったく動きがとれない状態におちいっているのだ。カーヴァーの作品のなかで不意にわきあがるような暴力の予感は、そうした現実に気づいているにもかかわらず、気づいていないふりをして生きていかなければならない人間の感情と深く結びついているように思う。

 彼らには家族の対話といったものが必要なのかもしれないが、あまりにも深くはまり込んでいるために、はっきりした言葉でそうした歪みを相手に伝えようとすることを放棄しているし、出発点の記憶がぼやけてしまっているだけに、根本的に何かを変えるといった次元はもはや存在しない。そこで登場人物たちは、自分の殻のなかで思いつめ、根本的な問題とはずれているが、すこしでもよい状況へ、あるいは何か違った状況へと自分を動かしていく。そのささやかな努力は、彼らが背負った重荷を暗示するようでもある。

 さきほどふれた「犬を捨てる」では、主人公のアルは、新しい家や一時解雇、浮気のことではなく、義妹が持ち込んだたちの悪い犬をいかにして捨てるかということに真剣になっている。ところが犬を捨て、子供たちの悲しむ顔を目の当たりにしたとたん、彼がそのなかで思いつめていたはずの殻はどこかに吹き飛んでしまう。彼はこう考える。

俺は犬を捨てたことから立ち直ることはできないだろう。犬を見つけることができなかったら、俺の人生なんてもうおしまいだ。子犬を捨てた男にどれだけの値うちがあるだろう。そんな男には何かをなしとげることもできないし、何かをあきらめることもできない。

 あるいは、「私にはどんな小さなものも見えた」(『ささやかだけれど、役にたつこと』所収)という短編では、ベッドには入ったものの外から聞こえた物音が気になって眠れない主婦=私が、門に錠をおろすために外に出ていくと、隣人のサムが自分の庭に佇んでいるのに気づき、立ち話をはじめる。私の夫のクリフとサムは、かつては親友同士だったが、ある晩、酒を飲んで口論をしてから、双方の家のあいだにそれぞれに垣根をつくり、絶縁状態になっている。私は、サムが仕事をやめ、何とか家を持ちこたえていくので精一杯になっていることを知る。そんなサムは、庭の草木を食い荒らすナメクジを餌で集め、洗剤らしき粉をせっせとふりかけている。さきほどふれた「足もとに流れる深い川」のクレアは、強姦されて川に捨てられた娘に自分を重ね合わせていく。決定的な変化があるわけではないが、そこにはいずれもかたちにならない暴力の予感が漂っている。

 そうした郊外の世界をめぐるカーヴァーの作品のまとめとして、最後に「ダンスしないか?」という短編にふれておきたい。この短編からは郊外のシュールな光景が浮かび上がってくる。郊外に暮らす主人公の男は、妻が出ていったために自分もどこかに引っ越すことに決め、いらないものを外に出している。ガレージ・セールというわけだが、男はベッドや洋タンスを寝室にあったときと同じように外に並べている。その光景を見て若いカップルが立ち寄る。そして、男とカップルは、家のなかにいるかのように酒を飲み、レコードをかけ、ダンスを踊りだす。

 郊外の真ん中だけに、娘はひと目を気にするが、男はいう。「奴らはここで起こったことは何でも一応目をとおしてきたつもりなんだ。でもさ、こういうのって見たことがないはずだよ。きっと」。娘は男の肩に頬を埋め、彼の身体を抱き寄せる。そして彼女は何週間かしてから、そのときのことをみんなに話そうとするのだが、いくら話しても“相手に伝えられない何か”が残る。カーヴァーの登場人物たちは誰もが、相手に伝えられない何かのまわりで立ち往生しているようにも思える。カーヴァーは、そんな言葉にならない暗闇を見つめつづけていたのだ。

***

 1961年生まれのデイヴィッド・レーヴィットは、カーヴァーやアン・ビーティよりもはるかに新しい世代に属している。彼が処女短編集『ファミリー・ダンシング』を発表したのは1984年、23歳のときのことだった。もちろん彼の短編には、ここにはとりあげなかったが、アン・ビーティの作品にあるような時代の喪失感は感じられない。ちなみに、邦訳された『ファミリー・ダンシング』の訳者あとがきには、レーヴィットの世代感覚についてこんな記述がある。

 彼(レーヴィット)はみずからの世代を「はざまの世代」(イン・ビトゥイン・ジェネレーション)と呼ぶ。つまり、カウンター・カルチャーの体験を共有するには若すぎ、コンピューターとともに育ってくるコンピューター世代と呼ぶには歳をとりすぎている世代という意味である。

 また、レーヴィットの長編『愛されるよりもなお深く』については、第23章で詳しくふれるが、この作品の登場人物のひとりが次のような言葉を口にする。

 「七〇年代に離婚家庭や不幸な家庭に育った子供たちは、大人になると、自分には縁のなかった、だが子供心にずっと渇望していた堅実な家庭を改めて作ろうとする。これは世代の特徴だよ」

 これをそのままレーヴィットの言葉だというつもりはないが、1961年生まれの彼は、少なくともそうした70年代に多感な10代の時代を過ごし成長してきたわけだ。そして、最初の短編のタイトルが『ファミリー・ダンシング』ということからもわかるように、彼は、80年代に再び家庭を見直そうとしている。これは第23章のほうのテーマになるが、彼の作品にはゲイという要素も盛り込まれ、ただ単に家庭を見直すだけではなく、未来に向かって家庭の新たなかたちを模索していこうとする姿勢も持ち合わせている。

 その第一歩であるこの『ファミリー・ダンシング』では、現代の郊外の家庭というものを非常に素直な目で見つめるような短編が目を引く。たとえば「犠牲者」という短編。ここで犠牲者というのは、ダニーという少年(と、もしかしたら両親)のことを指している。彼の両親は別れ、母親のエレインがダニーを引き取り、母子はダニーにとって叔父と叔母にあたるニックとキャロルの家に身を寄せている。一方、父親のアレンは、男とグリニッジ・ヴィレッジのアパートに暮らしている。この父親は、かつてはそれなりの家庭の理想像というものを持って生活を送っていた。その生活は、このように描写されている。

 当時のアレンは、夜になって帰宅した男には、一日の労働の報いとして妻とふたりだけで過ごす時間が許されていると信じていたのである。そのために母のエレインは、毎晩、夕食を二度とっていた。まず、ダニーといっしょに六時にスパゲッティとテイター・トットを食べ、ダニーが寝たあとにもう一度アレンといっしょに、キャンドル・ライトの灯りの下で、手のかかったロマンチックな夕餉の時を過ごすのである。

 しかし、その生活は長くはつづかなかった。母親は家庭を守り、子供を育てていく自信を失って、神経症になってしまう。もちろんそこには、父親がゲイであるという問題もある。しかし、父親のアレンはダニーに向かって「根はもっと深いんだよ」といってきかせる。父親にとってもっと深い問題とは郊外の生活だった。彼は息子とこんなやりとりをする。

「あのころパパはお金を稼いで家を買うことだけを考えていたんだよ。あのままうまくいってれば、キャロルとニックの家の隣に家を買ってたかもしれない。パパはお前にああいう環境のところで育ってほしかったんだ。あそこには緑がたくさんあって、空気が新鮮で、いいクラブがあるからな」

 そして、家族は崩壊してしまったが、皮肉なことに実際この息子は、キャロルとニックの家に預けられることになった。しかし、父親はこういう。

「間違っても外見の清潔さなんて信用するんじゃない。悪いことっていうのはな、本当に悪いことっていうのはな、いつだって、なにもかもがきれいに片づいていて、住んでる人間が朝の挨拶ぐらいしかしないきれいな家で起きるものなんだ」

 この『ファミリー・ダンシング』のいくつかの短編は、そうした郊外の生活に対する憧れと失望がひとつのポイントになっている。表題作の「ファミリー・ダンシング」には、主人公スーザンと彼女と離婚することになる夫とのあいだに、郊外の生活をめぐってこのような興味深いやりとりがある。彼女は、夫から新しい女性関係の話を打ち明けられるときに、夫の話の内容についてこんなふうに考える。

そのとき彼女は、それが、もっと大きな芝生のある広々とした郊外の家に引っ越そうという話であることを願った。

 一方、夫のほうは後にスーザンにこう語る。

「次に買う家は最後の家になる。つまり、おそらくは僕らがそこで死ぬ家になる、と僕が考えていたせいなんだ。僕らにはようやく最良の家を買うお金ができた。ということはすなわち、もうどこにも行けないということだったのさ。それで僕は、自分の人生が終わりのような気がしてしまったんだ」

 アメリカの郊外居住者が、いつも職業や収入に関してランクが上の郊外の町を望み、頻繁に家を変えることはすでにふれたとおりである。そして、家のことばかり考えているうちに、家族の意味が見失われてしまうこともある。「ファミリー・ダンシング」で、スーザンは郊外の階段が永久につづくような幻影にすがろうとし、夫はそれが幻影であることがわかる最後の家を恐れたのだろう。

 こうした短編からは、郊外の家への憧れと失望をくっきり描きだすところに、これからの家庭を見つめていこうとするレーヴィットの姿勢をかいま見ることができる。そして、レーヴィットの新たなる家族のかたちに対する模索については、第23章であらためてふれることにする。


(upload:2002/04/29)
 

《関連リンク》
サバービアの憂鬱 第14章 保守化するアメリカから浮かびあがる家族の肖像 ■
『ショート・カッツ』レビュー ■

amazon.co.jpへ●
ご意見はこちらへ c-cross@cside2.com
 

back topへ




■home ■Movie ■Book ■Art ■Music ■Politics ■Life ■Others ■Digital ■Current Issues


copyright