第15章 崩壊する家庭とよみがえる50年代の亡霊 スティーヴン・キングの暗闇

 
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(初出:東京書籍刊『サバービアの憂鬱』、1993年、若干の加筆)

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■■外部のホラー・イメージと内部の不安や亀裂の共鳴■■

 スティーヴン・キングは、アメリカの家族の日常生活にじわじわと恐怖を滑り込ませる。超能力、吸血鬼、狂犬病にかかった犬、何かの呪いや怨念といった決してホラー小説として新しいとはいえないアイデアが、読者を引きつけていくのは、そうしたホラー・イメージが、登場人物たちの日常に潜む不安や亀裂と呼応しているからだ。そして、不安や亀裂が広がっていくに従って、ホラー・イメージも肥大化していくことになる。不安や亀裂が、ホラー・イメージをたぐり寄せ、両者の相乗効果のなかで、家庭は崩壊していくのである。

 たとえば、『シャイニング』に登場する両親と一人息子の一家は、冬の間、雪に閉ざされる山奥のホテルに管理人として住み込むことから、恐ろしい体験をすることになるが、母親のウェンディは、一家がそのホテルに移る前に、家族についてこんなふうに考えている。

結局、自分たち三人は、永久に分かちがたく結びつけられてきたのだ、かりにこの三者一体が破壊されることがあるとしたら、それは、三人のうちのだれかによってではなく、外部からの力によってに違いない、と。

 この文章では、「外部からの力によって」といいつつも、家庭が破壊される可能性が頭をよぎるところに、すでに、この母親の内なる不安が滲みだしている。キングの小説における恐怖の構図が凝縮された文章だといえる。

 そして、この構図は、スピルバーグの映画における、家庭とUFOや巨大なサメといったガジェットとの関係ともよく似ている。ただし、ふたりの表現のスタイルはずいぶんと違う。これはもちろん、映像と活字の違いもあるだろうが、スピルバーグが、こわばりつつある日常に、さり気なく、そして巧みに非日常的なガジェットを誘いこむのに対して、キングは、あまりにも過剰な描写を通して、日常というものを異化し、ホラー・イメージをたぐり寄せるような不穏な空気を作り上げていくのだ。


《書籍のデータ》

●THE SHINING
by Stephen King (1977)
●CUJO
by Stephen King (1981)
●CHRISTINE
by Stephen King (1983)
●THINNER
by Richard Bachman (1984)

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●『シャイニング』
スティーヴン・キング
深町眞理子訳/パシフィカ/1978年)
●『クージョ』
スティーヴン・キング
永井淳訳/新潮文庫/1983年)
●『クリスティーン』
スティーヴン・キング
深町眞理子訳/新潮文庫/1987年)
●『痩せゆく男』
リチャード・バックマン
真野明裕訳/文春文庫/1988年)
 
 


■■郊外に転居した夫婦の間に広がる亀裂――『クージョ』■■

 たとえば、『クージョ』は、その好例ではないかと思う。この小説で、狂犬病にかかった巨大なセントバーナードの恐怖にさらされることになるのは、ニューヨークからメイン州の閑静な町に転居した両親と一人息子の三人家族である。この夫婦それぞれの転居に対する気持ちはというと、夫のヴィクは、安心して生活することのできないニューヨークでの生活を嫌い、閑静な町への転居を決めたのだが、妻のドナの方は、都会の生活が忘れられず、落ち着かない日々を送っている。これは、ニューヨークから海辺の町に転居した『ジョーズ』の警察署長夫妻とまったく同じである。そして、あの警察署長がニューヨークについて語る台詞には、警官という立場を考えるとかなりの皮肉が込められていたが、『クージョ』の場合には、ヴィクのニューヨークに対する感情が、いかにもキングらしい過剰な表現で描かれている。

 彼は、ニューヨークにちょっと出張すると考えただけでも冷や汗が滲むのを感じる。そして、彼の心のなかでは、こんな感情が渦巻いている。

彼とドナがメイン州に移り住むまでは、人間らしく生きていると感じたことは一度もなかったし、自分が何を求めているのかもよくわかっていなかった。そして今、ニューヨークはあれから三年間、ふたたび彼をつかまえる機会をひたすら待っていたのだという不吉な予感があった。飛行機が着陸するときに滑走路をオーヴァーランして、ジェット燃料の炎に呑みこまれるかもしれない。あるいはチェッカー機がトライボロ・ブリッジに激突して、血まみれの黄色いアコーディオンのようにぐしゃぐしゃになってしまうかもしれない。強盗がただ拳銃を振りまわすだけでなく、そいつをぶっぱなすかもしれない。ガスの本管が爆発して、九十ポンドの危険なフリスビーのように空中を飛んできたマンホールの蓋が、彼の首を切りおとすかもしれない。きっと何か悪いことがある。ニューヨークへ戻れば、あの町に殺されるだろう。

 危険な都会を離れたいという気持ちはごくありふれたものだが、それが、キングの手にかかるとこんな過剰な表現になってしまうのだ。そして、この文章だけをとりだしてみると、まるで被害妄想を通り越して、コミカルですらあり、この主人公は普通を突き抜けて病気ということにもなりかねない。しかし、小説の文体すべてが過剰なキングの世界に収まってしまうと、彼はあくまで普通の人々のひとりなのである。そして、普通ではあるが過剰な描写が積み上げられていくことによって、主人公たちの日常からは不穏な空気が漂い出すのだ。

 ニューヨークのことを嫌悪しているだけに、主人公のヴィクは、ただ転居するだけでなく、広告の仕事も何とか地元でこなそうとする。ところが、住宅のローンがあり、これから子供が大きくなろうとしている家族を抱え、地元ではニューヨークほど大口の仕事をとることができず、彼はジレンマに陥る。結局、夫は、仕事に振りまわされて家族への関心がおろそかになってしまう。一方、妻はといえば、「ニューヨークが恋しくてならないドナは、ふさぎこんだり、怒りっぽくなたり、おびえたりをくりかえしていた」ということになる。

 そこで、妻のドナは情事に走ってしまう。これはよくある話だが、筆者はドナの気持ちを綴る次のような文章がとても印象に残っている。

彼女はスティーヴ・ケンプとの情事にのめりこんだのはほぼ偶然からだったと、本気で信じていた。それはいわば地中の水道管が破裂したようなものだった。同じような下水管が、アメリカのほとんどすべての家の手入れの行きとどいた芝生の下に埋まっている、と彼女は信じていた。

 これは、いかにもキングらしい文章ではないかと思う。もし第13章で取り上げたようなミニマリズムの作家が、こうした設定や展開を選んだとしたら、登場人物たちは、簡潔な文体を通して内面が掘り下げられ、微妙なあやから普遍的な感情が浮かび上がってくることだろう。ところが、キングの作品の場合には、人物を掘り下げるかに見えて、過剰な文章は、登場人物を極端といえるほどに一般化していく。この引用についていえば、本当に"手入れの行きとどいた芝生"のある家に暮らす主婦に当てはまるような現実の断片をかき集め、ドナという人物のなかに、郊外の主婦の集合的なイメージを作り上げてしまうのだ。

 

 たとえば、"育ちざかりの子供とありあまる時間を抱えてほおっておかれた"ドナに関する次のような文章はその一例といえる。

前年の冬のある日、みぞれがポーチの暴風雨よけの窓を叩くのを眺めながら、わたしもかの有名な偉大なアメリカ主婦(グレイト・アメリカン・ワイフ)になってしまったみたい、と彼女は憂鬱な気分で考えたものだった。

 ちょっと気の利いた作家であれば、"偉大なアメリカ主婦"といった直接的で大袈裟な言葉は避けて、もっと間接的な表現をするところだが、キングの場合は、テレビ番組や商品名、ミュージシャンなども含めて、アメリカ的なイメージを強調するような固有名詞をうんざるするほど文章のなかに盛り込んでいく

 そして、特に夫に情事が露見したときの妻の弁明は、アメリカの郊外の生活をめぐる固有名詞のオンパレードである。彼女は、時間をもてあましてしまった理由をこんなふうに説明するのだ。

「わたしは図書館委員会や病院委員会に入りたくなかったし、ベイク・セール[訳注:家庭の主婦たちが自分で焼いたケーキ類を持ち寄って売り、慈善事業の資金を作る催し]を開いたり、自分から音頭をおってパン種を変えさせてみたり、土曜の晩にどこの家でも同じハンバーガー・ヘルパーのキャセロールで済ます風習を追放したりする気もなかった。毎度毎度げんなりするような同じ顔ぶれと会って、この町のだれがなにをしているかといった変わりばえのしないゴシップを聞きたくはなかった。爪をといで他人の悪口をいう気にはなれなかったの」

 言葉が本流のように流れでた。もう止めようにも止まらなかった。

「タッパーウェアやアムウェイのセールスもやりたくなかったし、スタンリー・パーティ[訳注:アムウェイは個人の家庭に近所の主婦たちを集めて、パーティ形式で家庭用品を売る会社の名前。このパーティの創案者の名前をとってスタンリー・パーティと呼ぶ]も開きたくなかったし、減量療養者協会(ウェイト・ウォッチャーズ)に入る必要もなかったわ。あなたは――」

 この台詞のなかに出てくる固有名詞は、郊外の世界のなかで、知らない者どうしを結びつけ、親交を深め、コミュニティ精神を培っていくための活動の羅列である。そして、もしこうした活動に参加する意味を見出すことができなければ、専業主婦にとって郊外の生活は、あまりにも虚しく孤独なものになってしまう。この台詞もまた、郊外の日常を過剰に描写するところから問題が浮かび上がってくるキング特有の話術といっていいだろう。

 『クージョ』では、こんなふうにして夫婦の亀裂が広がり、そこに狂犬病にかかった巨大なセントバーナードの脅威が忍びよってくるのだ。


 
 
 


■■チーヴァー・カントリーで自己と現実に目覚めていく男――『痩せゆく男』■■

 ある出来事がきっかけとなって、コミュニティに埋没している自分に気づくという展開は、チーヴァーやカーヴァーの短編を思い出させるが、『痩せゆく男』もまた、そんな展開が物語のポイントになっている。

 この小説の主人公ハリックは、妻と14歳の娘とコネティカット州にある郊外の町フェアヴューに暮らし、ニューヨーク市内に通勤する弁護士である。彼は、肥満という悩みを除けば満ち足りた生活を送っていた。ところがある日、ちょっとした不注意から、町を訪れたジプシーの一団のなかにいた老婆をクルマで轢き殺してしまう。

 彼は、このコミュニティの人種差別的な感情を代表するような警察署長や判事の力添えで、まったく責任を問われることなく無罪となる。しかし、ひとりのジプシーの老人が、彼に向かって「痩せていく」という言葉を残して町を去る。その後、この主人公は着実に痩せていくことになるのだ。

 この主人公が暮らすフェアヴューが、かなり裕福な家族が暮らす町であることは、彼の友人である医師にまつわるこんな描写から垣間見ることができる。

マイケル・ヒューストンはフェアヴュー人種の見本のようなものだった。マリブ・ビーチで日焼けした白髪のハンサムな医者。(中略)ヒューストン夫妻は、薄気味悪いほど器量のいいふたりの子供がいて、ランターン・ドライヴでも比較的大きいほうの家に住んでいる――カントリー・クラブまで歩いていける距離にあり、ジェニィ・ヒューストンは酔うとそのことを自慢する。それはかれらの家が十五万ドルをゆうに越える額の金がかかっていることを意味していた。ヒューストンはフォー・ドアの茶色のベンツを乗りまわしている。ジェニィは痔を患っているロールス・ロイスといった格好のキャデラック・シマロンに乗っている。子供たちはウェストポートの私立の学校へいっている。フェアヴューの噂は――これが往々にして当たっているのだが――ヒューストン夫妻は暫定協定を結んでいるとほのめかしていた。マイケルはきわめつけの女たらしだし、ジェニィのほうは午後の三時頃にはもうウィスキー・サワーを飲みはじめる始末だった。まさに典型的なフェアヴューの家庭だ、とハリックは思い、そして不意に疲れ、おびえた気分になった。

 なぜ彼がおびえた気分になるのかといえば、ひとつには、このコミュニティの排他的な特権を行使することによって責任を逃れた後ろめたさのために、自分を含むフェアヴュー人種というものに嫌悪感を抱くからだ。そして、もうひとつには、痩せていくことに関して、癌のような重い病気なのではないかという内なる不安と、ジプシーの呪いという恐怖が共鳴し、自分の周囲の現実が失われていくからでもある。

 ただし、このふたつの事柄は、郊外の生活をめぐって深く結びついてもいる。人々は、安全や安定を求めて郊外の町での暮らしを選ぶ。そして実際、この物語のように、外面的な問題は、コミュニティの政治力を行使することによって解消され、主人公の安定した生活は守られることになる。しかし、矛先が健康の問題に向けられるとなると、郊外の生活は何の保障にもならない。それどころか、なまじ外面的な安定が保障されているだけに、内なる不安がひとたび頭をもたげると、それはとめどなく膨らんでいくことになるのである。

 そんな不安から彼は恐ろしい夢を見ることになるのだが、その夢の描写はなかなか興味深い。

 痩せていく、ただその一言だが、十分に呪いの言葉になっているとハリックにはわかった、というのもニューヨーク市内に通勤して帰りには社交車両で一杯という裕福な上流階級が住むこの郊外で、ジョン・チーヴァーの生国のド真ん中に位置するこの小ぎれいなニュー・イングランドの町フェアヴューで、誰もが餓死しかけていたからだ。(中略)フェアヴューはナチの強制収容所の生き残りたちであふれた町になっていた。

 すでに第7章をお読みの読者には、"ジョン・チーヴァー"という人名や"生国のド真ん中に"といったキングらしい話術がもたらす効果について、あらためて説明する必要もないだろう。

 この文章で印象的なのは、フェアヴューの世界から"ナチの強制収容所"といった過去の出来事が浮かび上がってくることだ。第7章で取り上げたチーヴァーの短編「THE COUNTRY HUSBAND」には、郊外のパーティに出席した主人公が、ここには過去も戦争もなかったという暗黙の了解で人々が結束しているような印象を受ける場面があったが、この夢の描写には、あの場面に通じるものがある。キングはもしかしたら、チーヴァーに影響されるところもあったのかもしれない。====>2ページへ続く



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