第16章 揺らぐ50年代のイメージ

ブルー・ベルベット/Blue Velvet―――――――1986年/アメリカ/カラー/121分/シネスコ/ドルビー
ペアレンツ/Parents――――――――――――1988年/アメリカ/カラー/83分/ヴィスタ/ドルビー
ワイルド・アット・ハート/Wild at Heart―――――1990年/アメリカ/カラー/124分/シネスコ/ドルビーSR
クライ・ベイビー/Cry-Baby―――――――――1990年/アメリカ/カラー/86分/ヴィスタ/ドルビー
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(初出:東京書籍刊『サバービアの憂鬱』、1993年、若干の加筆)
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■■デイヴィッド・リンチと50年代の繋がり■■

 『ブルー・ベルベット』、『ワイルド・アット・ハート』、そして何よりも"ツイン・ピークス"の異様なブームによって、広く注目を集めることになったデイヴィッド・リンチ。彼もまた、50年代という時代がその作品に影をおとす映像作家である。

 デイヴィッド・リンチは、1946年にモンタナ州ミズーリに生まれた。リンチの場合には、監督として注目されていくのが80年代に入ってからのことなので、すでにこの本で取り上げたスピルバーグやウォーターズなどよりも新しい世代のような印象を受けるが、実際には、ウォーターズと同い年で、スピルバーグよりもひとつ年上のまったく同世代ということになる。

 リンチ一家は、50年代には、父親の仕事(農務省のリサーチ・サイエンティスト)の都合で、ワシントンやアイダホなどを転々とした。そして、60年代にヴァージニア州アレクサンドリアに落ち着き、リンチはそこでハイスクールに通った。「ローリング・ストーン」誌90年9月6日号に載ったリンチのインタビューには、彼が両親と一緒に暮らしていた若い頃の生活について、次のような実に興味深いコメントがある。

「まさに50年代という感じだった。雑誌には広告があふれ、素敵なかっこうをした女性がオーブンからパイを取り出している。顔に笑みを浮かべて。それから、微笑むカップルが、フェンスのある家に入っていくところだったり。そんな笑顔ばかりが目につくんだ。あれは奇妙な笑顔だよ。世界はこうあるべきだ、そうでなくてはならないといいたげな笑顔なんだ。ぼくは狂ったように夢に引き込まれた。いろいろな意味でこのことに興味を引かれるんだ。とにかく何かその、大事件ではないにしても、いつもと違ったことが起こってほしいと思っていた。まわりの人々が自分に同情するような。つまり、自分が被害者のような立場になるわけだ。たとえば、恐ろしい出来事があって、ひとりだけ取り残されるとか。それは、素晴らしい夢だともいえるんだ。しかし、実際には何も起こらずに過ぎてしまった」

 リンチは同じインタビューのなかで、「両親があまりにも普通であることにある種の戸惑いを覚えた」とも語っている。どうやらリンチの両親は、50年代の広告の世界そのままに、アメリカン・ウェイ・オブ・ライフを送っていたようである。




―ブルー・ベルベット―


◆スタッフ◆

監督/脚本   デイヴィッド・リンチ
David Lynch
撮影 フレデリック・エルムス
Frederick Elmes
編集 ドゥエイン・ダンハム
Duwayne Dunham
音楽 アンジェロ・バダラメンティ
Angelo Badalamenti

◆キャスト◆

ジェフリー.   カイル・マクラクラン
Kyle MacLachlan
ドロシー イザベラ・ロッセリーニ
Isabella Rossellini
フランク デニス・ホッパー
Dennis Hopper
サンディ ローラ・ダーン
Laura Dearn
ベン ディーン・ストックウェル
Dean Stockwell
ウィリアムズ刑事 ジョージ・ディッカーソン
George Dickerson
ウィリアムズ夫人 ホープ・ラング
Hope Lange

(配給:松竹富士)
 
 


 そうした生活に対する違和感を、視覚的な要素を通して表現するリンチの言葉は、第12章で引用したエリック・フィッシュルのコメントを想起させることと思う。フィッシュルは、アメリカン・ドリームとしての郊外生活は、視覚の産物、まやかしであり、何もかもがあまりにも"完璧"な郊外の世界に、耐え難い違和感を覚えたというようなことを語っていたが、リンチもまたそれに近いことを感じていたわけだ。

 そして、フィッシュルは、様々な模索を経たあとで、少年時代の郊外体験に根ざしたところから『Bad Boy』以降の独自の世界を切り開いてきたわけだが、リンチの場合も、個人的な体験と作品のあいだに、同じような繋がりを見ることができる。先ほど引用したリンチのコメントから真っ先に思い浮かぶ作品といえば、何といっても『ブルー・ベルベット』(86)だろう。

 ぬけるような青い空、そして、白いフェンスと赤いバラ。ボビー・ヴィントンの<ブルー・ベルベット>が流れ出し、のどかな郊外の家並みがつづく道を消防車が呑気に走りすぎ、今度は、白いフェンスに黄色のチューリップが大きく映し出される。それから、横断歩道を渡る子供たちの、これまたのどかな光景、そして、白いフェンスと豊かな緑に囲まれた一軒の家。その庭では、家の主人が芝生に水をやり、居間では夫人が、テレビのサスペンスドラマを見ている。これはまさに、50年代の雑誌広告の世界を思わせる光景である。リンチ流にいえば、世界はこうあるべきだといいたげな光景といってもよいだろう。

 ところが、家の主人が、植木にからんでいるために水の調節がきかなくなったホースをなんとかしようとしたときに、突然発作が起こり、彼は芝生の上に倒れこむ。犬がホースから噴き出す水と戯れ、その向こうでは、赤ん坊がよちよち歩きをしている。

 すでに触れたように、郊外の世界には、快適な生活を送るための環境が整えられている一方で、ひとつ歯車が狂うと全体のバランスが崩れかねない危うさがある。この場面では、そんな危うい雰囲気がとらえられている。しかも、カメラは、表面的なイメージの影の部分をえぐりだそうとするかのように、緑の芝生のなかにもぐり込み、不気味にうごめく蟻の群れをとらえる。これは、『ブルー・ベルベット』という映画が描き出そうとする世界を暗示するようなオープニングだ。

 この映画の主人公ジェフリーは、野原で人間の耳を見つけ、警察に届けたことがきっかけで、犯罪と暴力、倒錯的なセックスの世界に引き込まれていく。この官能と倒錯の世界が実に鮮烈な印象を残すのは、映像そのもののインパクトだけではなく、それとは対極にある世界との際立ったコントラストによるところが大きい。この映画には、ふたつの世界を対置させたり、ひとつのもののふたつの側面をみるようなイメージがふんだんに盛り込まれている。

 たとえば、主人公が見つける耳は、こちらと向こう側の境界を暗示している。主人公は、いかにも郊外の中流家庭の娘といった感じのサンディと、ナイトクラブの歌手で倒錯的なセックスを強要されるドロシーのあいだを揺れ動く。"耳"の事件を担当する刑事はサンディの父親だが、彼の同僚の刑事が犯人たちとグルであったという展開も、この対置の構図に加えることができるだろう。

 もちろん、先ほど触れた冒頭の典型的な郊外の光景と芝生の下に蠢く蟻の群れの対照もそのひとつである。また、この映画の冒頭では、ブルーのベルベットが妖しい艶を放ち、それが抜けるような青い空へと変わるのだが、このふたつの青の対照なども実に効果的であると思う。

 そして、こうした対置の構図のなかで展開するこの映画が、奇妙な余韻を残すのは、対置されるものが、単なる表と裏、光と影、あるいは正常と異常といった関係に帰結してしまうことがないからだろう。フィッシュルがあまりにも完璧な世界に耐えられないものを感じ、リンチがあまりにも普通である両親に戸惑い、世界はこうあるべきだといいたげな広告の笑顔に違和感を覚えたように、表や光、正常といった側面は、それがあまりにも過剰であれば、そこにすでに病理が潜んでいるのだ。この映画の冒頭の青い空と白いフェンス、赤いバラは、ある意味ではあまりにも完璧であり、それゆえに、非現実的で不気味な印象を与えるのだ。

 リンチもまた、フィッシュルと同じように、少年時代の体験がひとつの大きなきっかけとなって、この『ブルー・ベルベット』の世界を作り上げたことは間違いないが、このふたりの作品を照らし合わせてみたとき、特にフィッシュルの『Bad Boy』と『ブルー・ベルベット』から、同じようなイメージが浮かび上がってくるのが、筆者にはとても興味深く思える。

 『ブルー・ベルベット』には、主人公ジェフリーが、ドロシーの部屋のクロゼットに身をひそめ、倒錯的なセックスを覗き見する場面があるが、そこに漂うムードは、『Bad Boy』そのものといっていいだろう。どちらも倒錯的で密室めいた濃厚な空気があり、少年や若者の好奇心や後ろめたさが入り混じった窃視行為が描かれるか、あるいは暗示されているのだ。

 こうしたイメージは、この本でこれまで取り上げてきた様々な作品には、あまり見られなかったものである。そして、『Bad Boy』と『ブルー・ベルベット』は、どちらも80年代の作品だが、この二作品を、この何章かで書いてきた時代の流れのなかに置いてみると、なかなか面白いのではないかと思う。

 70年代から80年代にかけて、アメリカ社会は保守化し、ジュディス・ゲストの言葉にあったように、異常ではなく普通が見直されるようになった。映画『普通の人々』や『ポリエステル』では、普通であることに揺さぶりがかけられ、その意味が問い直される。そして、この前の章では、キングの『クリスティーン』を通して、50年代が不気味な雰囲気を漂わせて甦ってきたばかりだった。

 『ブルー・ベルベット』や『Bad Boy』は、そうした流れの先にあるイメージではないかと思う。あるいは、一見すると普通に見える世界を、家族の絆や家庭というかたちから問い直すのではなく、個人の内面の奥底に触手を伸ばすことによって、表面的な世界の向こう側に蠢くものを描き出し、現実を異化してみせるといってもいいだろう。

 

■■50年代のイメージを揺さぶる少年の悪夢■■

 こうしたイメージは、ひとつの流れを作り、90年代に向かってさらに開花していくことになるが、ここでは、とりあえず『ブルー・ベルベット』の2年後の88年に発表された映画『ペアレンツ』を取り上げ、その流れの一端をみておくことにしよう。

 『ペアレンツ』は、『ブルー・ベルベット』を通過しなければ生まれてこないような作品だといえる。おそらく、この映画を見た人は、この章の最初に引用したリンチのコメントを思い出すことだろう。というのも、この映画の主人公の少年は、絵に描いたような郊外の生活のなかで、生活をエンジョイする両親の姿に不自然さを感じ、悪夢に引き込まれていくからである。そして、原色を強調する映像や、映画の時代設定がはっきりしてないにもかかわらず、冒頭に50年代の郊外の世界がくっきりと描かれるあたりも、『ブルー・ベルベット』に通じている。

 映画は、両親と息子の三人家族が、クルマで郊外の町に越してくるところから始まる。その郊外の光景は、明るく活気にあふれ、郊外化が最高潮を迎えた時代の雰囲気を漂わせている。しかも、そんなシーンと交錯するように挿入されるのは、広大な土地に同じ規格で建てられた住宅が広がる、レヴィットタウンのようなパッケージ・サバーブの光景を収めた記録フィルムである。また、バックには、50年代に一世を風靡したペレス・プラードのラテン・ナンバーが流れ(サントラを手掛けているのは、リンチ作品でお馴染みのアンジェロ・バダラメンティである)、このオープニングのシーンには、大量消費時代の夢の郊外における生活の始まりが、楽天的なムード一色で描かれているのだ。


 
―ペアレンツ―

◆スタッフ◆

監督   ボブ・バラバン
Bob Balaban
脚本

クリストファー・ホーソーン
Christopher Hawthorne

撮影 アーネスト・デイ、ロビン・ヴィジョン
Ernest Day, Robin Vigeon
編集 ビル・パンコウ
Bill Pankow
音楽 アンジェロ・バダラメンティ、ジョナサン・イライアス
Angelo Badalamenti, Jonathan Elias

◆キャスト◆

ニック.   ランディ・クエイド
Randy Quaid
リリー メアリー・ベス・ハート
Mary Beth Hurt
ミリー サンディ・デニス
Sandy Dennis
マイケル ブイライアン・マドースキー
Bryan Madorsky

(未公開、ビデオ化)
 
 
 


 それだけに、本編では、幸福に満ちあふれた生活が始まるかにみえる。そして確かに、両親の姿は幸福そのものだが、主人公の少年は、郊外の生活に馴染むことができずに、自分の世界に閉じこもっている。この少年は、ときとして両親が他人であるかのような不安を覚え、彼らに疑念の入り混じった眼差しを向ける。そして、毎晩、グロテスクな悪夢にうなされ、そんな悪夢が、ビザールなイメージを膨らませていく。たとえば、少年が眠っているベッドが突然、プールのような液体になり、彼はそのなかに沈み、液体は血を思わせる色に変わる。そして、真っ赤になった画面からカメラが引いていくと、それは、翌朝、ダイニング・キッチンのテーブルの上に並べられたトマト・スープの赤に変わっているのだ。

 少年の悪夢がそんなふうに料理と結びつくのは、この映画の展開の伏線ともなっている。というのも、この少年が特に恐れているのは、両親が好んで食べる肉料理なのだ。彼はグロテスクなほど生々しい艶のある肉料理を見ると、両親にいくらすすめられても食べる気が起こらない。そこで彼は、肉の出所を突き止めようと、父親を尾行し、彼の勤め先に忍び込む。少年には意味のわからないことだが、観客には、彼の父親が、ベトナム戦争で使用する枯葉剤の研究を進めていることがわかる。そして少年は、父親が、病院に並ぶ死体から肉や内臓をとり、それを家に持ち帰って食べていることを知る。そのため、裏庭でのバーベキューという郊外の生活を象徴するような光景が、グロテスクなものに変貌することになる。

 ベトナム戦争に枯葉剤、カニバリズムまでが飛び出してくるこの映画のグロテスクなイメージは、どこまでが少年の悪夢なのか判断がつかないが、そこには、ふたつの要素が巧みに絡み合っている。

 ひとつは、もちろん郊外生活を背景にした少年の悪夢である。悪夢など望んでみるものではないが、郊外の子供の場合には、リンチのコメントにもあったように、心のどこかで気づかぬうちにそれを求めているといったことがある。郊外の世界は、開放的である反面、プライバシーが制限され、影となる部分が極端に少ない。そこで、無意識のうちに影を求めるといったことが起こってくる。

 しかし、そんな心理から引き寄せられた影や悪夢が、現実とは無縁の妄想とばかりはいえない。『ブルー・ベルベット』のあの青い空や白いフェンスを思い出してもらえばわかるように、自然ではなく、過剰な光に照らし出される人工的なイメージがまともには見えないように、隅に追いやられた影の世界もまた歪み、そこに病理が潜むことになるからだ。

 そして、この映画の場合には、もうひとつの要素としてベトナム戦争が浮かび上がってくる。平穏な郊外生活とベトナムの戦場を模したミニチュアで行われる実験の対置は、何ともシュールだが、こうした展開によってこの映画は、50年代という枠組みから逸脱し、外部へと視野を広げていく。楽天的なムード一色だった郊外の空間は、少年の悪夢を通して生々しい現実のなかに放り出され、危うい世界へと変貌していくのである。


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