第18章 郊外のティーンエイジャーに襲いかかる悪夢―「ハロウィン」ウェス・クレイヴン

ハロウィン/Halloween――――――――――――――1978年/アメリカ/カラー/90分/シネスコ
鮮血の美学/Last House on the Left――――――――1972年/アメリカ/カラー/85分
エルム街の悪夢/A Nightmare on Elm Street――――1984年/アメリカ/カラー/91分/ヴィスタ
デッドリー・フレンド/Deadly Friend―――――――――1986年/アメリカ/カラー/91分/ヴィスタ
壁の中に誰かがいる/The People under the Stairs――1991年/アメリカ/カラー/102分/ヴィスタ
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(初出:東京書籍刊『サバービアの憂鬱』、1993年、若干の加筆)
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■■ハロウィンが消し去る外部と内部の境界■■

 第15章で取り上げたスティーヴン・キングの作品や映画『ポルターガイスト』などでおわかりのように、家庭という題材とホラーというジャンルが結びつくとき、郊外の世界は、恐怖のイメージを描き出すかっこうの舞台となる。この章では、郊外を舞台にしたホラー映画、そのなかでも特にティーエイジャーが主人公になる作品を取り上げ、恐怖と郊外のティーンがどのように結びついているのかを探ってみたいと思う。

 まず最初に取り上げるのは、ジョン・カーペンター監督の出世作にして、70年代のホラー映画の代表作ともいえる『ハロウィン』(78年)である。この映画は、様々な意味で郊外の町という舞台が印象に残る作品である。

 この映画でまず興味を引くのは、なんといってもハロウィンという設定だ。映画の舞台は、イリノイ州にあるハドンフィールドという郊外の町で、このコミュニティでは、住人がほとんどみな顔見知りである。当然のことながら、見知らぬ人間がうろついていれば、住人の関心を引くし、気になる存在にもなる。主人公のベビーシッターは、そんな町のなかで見知らぬ男につけまわされる。だが、友人たちは、男の存在に気がつかない。それだけでも映画には独特の緊張感が漂う。

 しかも、それがハロウィンの当日ともなれば、この主人公ばかりでなく、見る者にもリアルな恐ろしさが伝わってくる。なぜなら、見知った顔がみな仮装し、コミュニティの内と外の境界がなくなってしまうからだ。町の警官の姿勢からも明らかなように、この町にはさしたる事件もない。そうした郊外の町では、各家庭が戸締りなどはしないに違いない。そういう意味で、これは、郊外を舞台にした実によくできたホラー映画といえる。




―ハロウィン―


◆スタッフ◆

監督/脚本/音楽   ジョン・カーペンター
John Carpenter
脚本 デブラ・ヒル
Debra Hill
撮影 ディーン・カンディ
Dean Cundey
編集 チャールズ・ボーンスタイン、トミー・リー・ウォレス
Charles Bornstein, Tommy Lee Wallace

◆キャスト◆

ローリー.   ジェイミー・リー・カーティス
Jamie Lee Curtis
ルーミス ドナルド・プレザンス
Donald Pleasence
アニー ナンシー・キーズ
Nancy Kyes
ブラケット チャールズ・サイファーズ
Charles Cyphers
マイケル トニー・モラン
Tony Moran
リンダ P・J・ソールズ
P. J. Soles
ボブ ジョン・マイケル・グレアム
John Michael Graham

(配給:ジョイパックフィルム)
 
 
 


 また、殺人鬼の設定にも、どこか郊外ならではの暴力性を感じとることができる。78年のハロウィンの日にハドンフィールドにやってくるのは、15年前にこの町で姉を惨殺し、精神病院に収容されていた少年である。15年の間に成人した彼は、再びこの町に舞い戻る。この少年が犯行に及んだ63年のハロウィンの夜、両親は留守で、姉は家にボーイフレンドを呼び寄せてセックスする。

 そして、ボーイフレンドが帰った直後に、道化の仮装をした弟が、入れ替わるように姉の部屋に入っていき、下着しかつけていない姉を刺し殺す。姉と弟の年齢差を考えると、嫉妬の感情からという動機なのかもしれないが、この郊外の雰囲気は、娯楽に乏しい世界で、唐突に剥き出しになる性が暴力を誘発するという印象を与える。町に舞い戻った男が、ある家の窓から偶然目にするのは、ポップコーンを作っていたベビーシッターが、服にバターを飛ばしてしまったために着替えをする姿だ。

 この映画のなかで、唐突に剥き出しになる性とハロウィンは効果的に結びついている。見通しがきく郊外の世界のなかで、ハロウィンは影の部分を作り、清潔で明るい郊外とは程遠いゴシック的な想像力を引き寄せる。そして、ティーンの隠れたセックスもまた、郊外に影の部分を作っている。

 スピルバーグは『E.T.』において、そんなハロウィンが生み出す影を逆手にとってファンタジーを盛り上げ、ウォーターズは『ポリエステル』において、ハロウィンの影を悪用する強盗を登場させている。また、この章で後に触れる『デッドリー・フレンド』でも、ハロウィンが悲劇の発端となる。

■■ウェス・クレイヴンとティーンエイジャーの悪夢■■

 『エルム街の悪夢』の監督としてよく知られるウェス・クレイヴンは、彼が監督したすべての作品にそれが当てはまるというわけではないが、郊外のティーンがたぐり寄せる影に関心を持っていることを物語る作品を何本か発表している。

 クレイヴンの監督デビュー作『鮮血の美学』(73年)は、そのうちの1本である。これは16ミリで撮影したものをブロウアップして公開された超低予算作品で、後に『13日の金曜日』を監督するショーン・S・カニンガムが製作にあたり、クレイヴンが監督、脚本、編集を手掛けている。アメリカでは、いわゆるカルト・ムーヴィーになっている。

 また、これは、クレイヴンの郊外のティーンに対する関心とも結びつくことだが、この作品には、彼のもうひとつの特徴が現れている。彼は、『エルム街の悪夢』以後の比較的新しい作品『ショッカー』では、新聞記事がヒントになっているといったコメントを残し、『壁の中に誰かがいる』では、実話がもとになっていると語っているように、現実の出来事からインスピレーションを得ることが多いが、このデビュー作でも、映画の冒頭に「これは実話であるが、生存者の安全を期して、人名と地名は変更した」という前置きがある。実際にこの作品を見た人は、どこまでが実話であるのか、気の遠くなるような思いをすることだろうが、クレイヴン自身は、ベルイマンの『処女の泉』に触発されてこの作品を撮ったとも語っており、そこには大胆な脚色や飛躍があるに違いない。

 

 『鮮血の美学』の主人公、というよりも、あまりに凄惨な犠牲者となるのは、17歳の誕生日を迎えるマリーという娘と彼女の女友だちのフェリスである。マリーはひとり娘で、医師の父親と母親の三人で暮らしている。彼らの家は、周囲に湖水や森林しかないような自然のなかにぽつんと建っている。郵便配達が、「文明社会からマリーにカードだ」とつぶやくような場所だ。その居間では、新聞に目を通す父親と母親の間で、こんな会話のやりとりがある。「世間はどんな様子?」「あい変わらず殺人が多い」。この両親は、危険な都会を嫌って、この人里離れた家にこもって生活しているのだ。

 娘のマリーは、その誕生日の日に、お気に入りのロック・バンドのライヴを見るために、フェリスと街へ繰り出す約束をしている。父親は、娘がノーブラだったり、お目当てのロック・バンドが演奏中にニワトリを殺したことがあるバンドであることに眉をしかめるが、しぶしぶ彼女を送り出す。ここまでは、60年代から70年代であれば、よくありそうな家族のやりとりといってもよいだろう。

 そのふたりの娘たちが街に向かうとき、クルマのラジオからは、凶暴な脱獄犯が付近を徘徊しているというニュースが流れているが、彼女たちは気にもとめない。

 映画は、彼女たちが街に着くあたりから、娘と両親をめぐって、それがまるで別の時代の物語であるかのように引き裂かれていく。街では、ふたりの娘たちがマリファナを探し歩き、家では、両親が娘の誕生日の準備を進めている。娘たちが、うまい話に釣られて、脱獄犯の隠れ家に連れ込まれてしまったころ、両親は、"誕生日おめでとう、マリー"と書かれた垂れ幕を壁にかけ、部屋の飾り付けをしている。


 
―鮮血の美学―

◆スタッフ◆

監督/脚本/編集   ウェス・クレイヴン
Wes Craven
製作

ショーン・S・カニンガム
Sean S. Cunningham

撮影 ヴィクター・ハーヴィッツ
Victor Hurwitz
音楽 デイヴィッド・ヘス
David Hess

◆キャスト◆

クルッグ.   デイヴィッド・ヘス
David Hess
マリー・コリンウッド サンドラ・カッセル
Sandra Cassell
フィリス ルーシー・グランサム
Lucy Grantham
ジュニア マーク・シェフラー
Marc Sheffler
セイディ ジェラミー・レイン
Jeramie Rain
ウィーセル フレッド・リンカーン
Fred Lincolin
Dr. ジョン・コリンウッド ゲイロード・セント・ジェイムズ
Gayload St. James
エステル・コリンウッド シンシア・カー
Cynthia Carr

(配給:日本ヘラルド)
 
 
 


 脱獄犯に抵抗しようとしたフェリスが、男たちの欲望の餌食となり、目の前の悪夢にマリーの顔が引きつり、意識が朦朧としていくとき、彼女の両親は、焼きあがったケーキのスポンジをオーブンから取り出し、クリームを絞って娘の名前を入れている。飾り付けられた居間を見回して、「姫のお城が出来上がった」と満足げな両親の様子は、50年代の幸福なアメリカン・ファミリーの姿そのものである。しかも、家のシーンには、軽快な音楽が鳴り響き、脱獄犯の隠れ家のシーンでは、ベースの低音が不穏な空気を醸しだし、異様なコントラストを生み出している。

 この並行して描かれるドラマがひどく不気味に見えるのは、50年代そのものの時代錯誤的な両親がカリカチュアされる一方で、新しい価値観を背負った娘にも、悪意の矛先が向けられるからだろう。

 たとえば、マリーの父親は、街に行く娘に、お守りとして"ピースマーク"を象ったペンダントをプレゼントする。マリーの部屋には、ミック・ジャガーやジャニス・ジョップリンのポスターが壁いっぱいに貼ってある。そして、凄惨な暴力シーンのバックに絶え間なく流れるのは、愛と平和を思わせるほのぼのとしたロックやフォーク、カントリー&ウエスタンなのである。

 娘たちは、そんな音楽にのって、あまりにも凄惨な暴力の洗礼を受けるのだ。脱獄犯たちは、娘たちをクルマのトランクに詰めて街から逃亡するが、そんな彼らのクルマがエンコするのは、皮肉なことに、マリーの家のすぐ手前だ。娘たちは、湖水をカモが泳いでいるような自然のなかで、放尿を強制されるような辱めを受け、強姦され、そして殺害され、放置される。

 この暴力と死をさらに重くしているのは、事件に遭うまでのマリーの浮き立つような感情だろう。彼女はこの映画の冒頭で、シャワーを浴びながら、自分の胸の膨らみを見つめる。友人と会ったときには、初めて自分が女らしくなったと感じたことを、嬉しそうに語る。結局、彼女は、17歳の誕生日を迎え、最高の気分のときに、悲惨な事件に遭遇することになる。

 しかし、話がそこで終わるわけではない。クレイヴンの眼差しは、なおも家庭の奥深くへと入り込んでいく。脱獄犯は、偶然すぐそばにあった家、つまりマリーの家を訪ね、一泊させてもらうことになる。犯人たちは、マリーの部屋の写真から、そこが誰の家から気づき、一方、マリーの両親も、部屋から漏れる彼らの会話と荷物の中身から、その正体を知る。その結果、両親は、復讐の鬼と化すが、その手段は尋常ではない。母親は、犯人のひとりを色仕掛けで外に誘い出し、男のペニスを食いちぎる。父親は、『悪魔のいけにえ』(74年)の登場を予感させるかのように、地下室からシェーンソーを持ち出し、犯人を血祭りにあげるのだ。

 結局、クレイヴンは、かたちはどうであれ、一見すると平和な家庭から激しい暴力を引き出し、その暴力によって映画を結末へと導く。この映画のすごさは、暴力が、最後の最後まで単なる残虐趣味に陥ってしまわないところにある。クレイヴンは、両親の50年代的な価値観と娘のロックやマリファナの価値観にさしたる違いがないかのように、この家族に冷徹な暴力の洗礼をもたらし、家庭という世界から暴力性を引き出してしまうのだ。そして、この作品以後も、クレイヴンは、様々なかたちで家庭の内側から暴力的なイメージを引き出していくことになる。=======>2ページに続く


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