第19章 こわばった郊外居住者の妄想―「ネイバーズ」「メイフィールドの怪人たち」「チェッキング・アウト」

ネイバーズ/Neighbors――――――――1981年/アメリカ/カラー/96分
メイフィールドの怪人たち/The Burb's――1989年/アメリカ/カラー/102分/ヴィスタ
チェッキング・アウト/Checking Out―――1989年/イギリス/カラー/95分
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(初出:東京書籍刊『サバービアの憂鬱』、1993年、若干の加筆)
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■■郊外の生活に埋没したミスター・サバービア■■

 前の章では、ティーンエイジャーに襲いかかる悪夢について書いたが、この章で扱うのは、しいでいうなら、郊外の父親が遭遇する悪夢の物語といえる。但し、こちらはホラーではない。スピルバーグは、『激突!』の主人公のことを"ミスター・サバービア"と表現していたが、この章では、そんなミスター・サバービアたちの頭のなかに広がる妄想に注目してみたいと思う。

 ここで取り上げるのは、典型的な郊外の父親である主人公を挑発し、風刺するような映画である。もちろん、そうした主人公たちは、郊外の世界というものに違和感を感じているわけでもなく、家庭の崩壊や歪みを背負っているわけでもなく、とりあえず何事もなく(あるいは、何事もないかのように)郊外の生活を送っている。そこで、映画の流れとしては、主人公の周辺に何事かが起こり、彼の内面に波紋が広がり、それが妄想といえるようなものに発展していく過程が風刺的に描かれることになる。スピルバーグは、風刺を様々なガジェットでカモフラージュしていたが、これから取り上げるのは、そうした風刺をもっと前面に押し出した作品といってよいだろう。

 まず最初に取り上げる作品は、トマス・バーガーのベストセラー小説『危険な隣人』の映画化で、ジョン・G・アヴィルドセンが監督し、ジョン・ベルーシの最後の主演作となった『ネイバーズ』(81年)である。この映画でベルーシは、彼のキャリアからすると間違いなく異色の役柄といえるだろうが、ミスター・サバービアである主人公アール・キーズに扮している。

 『ネイバーズ』から見えてくる主人公アールの基本的なキャラクターを簡単にまとめておくと、彼は、専業主婦のイーニドとふたり暮らしで、ひとり娘はすでに家を離れ、大学に通っている。彼がどんな仕事をしているのかは定かではないが、とにかく最寄の駅から電車通勤し、駅から家までは、妻が運転するステーションワゴンで送り迎えしてもらうという毎日を送っている。

 映画は、この夫婦がステーションワゴンで帰宅する冒頭から、どことなく暗い雰囲気を漂わせている。それは、夫婦の間にほとんど会話がなかったり、他にやることもないため、しかたなくテレビを見て過ごすためでもあるが、彼らの家を取り巻く景観によるところも大きい。




―ネイバーズ―



◆スタッフ◆

監督   ジョン・G・アヴィルドセン
John G. Avildsen
脚本 ラリー・ゲルバート
Larry Gelbart
原作 トーマス・バーガー
Thomas Berger
撮影 ジェラルド・ハーシュフェルド
Gerald Hirschfeld
編集 ジェーン・カーソン
Jane Kurson
音楽 ビル・コンティ
Bill Conti

◆キャスト◆

アール・キーズ   ジョン・ベルーシ
John Belushi
ビッグ ダン・エイクロイド
Dan Aykroyd
イーニド キャスリン・ウォーカー
Kathryn Walker
ラモナ キャシー・モリアーティ
Cathy Moriaty
エレイン ローレン・マリー・テイラー
Lauren Marie Taylor

(配給:コロンビア映画)
 
 


 彼らが住んでいるのは、田舎町がベッドタウン化しつつあるような郊外の一角であり、彼らの家ともう一軒の家の二軒が、取り残されたようにぽつんと建つ行き止まりの空間なのだ。しかも、家の周囲は、以前には自然に恵まれていたようだが、いまでは、どこかの工場から流される廃液によってヘドロの沼ができ、そばには、送電線を支える巨大な鉄塔まで建っている。要するに、どこか風通しが悪く、全体に空気が淀んでいるのである。

 そして、主人公のアールは、もう一軒の家に、謎めいたカップルが引っ越してきたことがきっかけとなって、不条理な悪夢に引き込まれていくことになる。この展開は、かなりシュールなタッチで描かれているため、郊外の世界という背景が見えないと、つかみどころのない話のように思われるかもしれない。

 たとえば、ボブ・ウッドワードが書いたベルーシの伝記『WIRED』は、日本では内容を削った編訳版『ベルーシ殺人事件』として出版されているが、そのなかに、この『ネイバーズ』に対して対照的な反応を示す映画人のエピソードが出てくる。

 映画監督のルイ・マルと脚本家のジョン・ガールは、『ネイバーズ』の次にベルーシを自分たち作品に起用しようと考えていた。そんな彼らのこの映画に対する反応は、次のように描かれている。

 試写を見終わったルイ・マルとガールはいささか呆然となった。こんなに胸が悪くなるような映画とは思ってもみなかったのだ。ガールは、けばけばしくて少しもおかしくないコメディだと思った。二人の隣人が死闘をくりひろげる。だがどうしてそうなるのかよくわからない。しかも最後に二人は一緒に家出してしまう。ベルーシの妻が悪役になっているが、やっぱりどうしてそうなるのかわからない。ベルーシの演技は始めから終わりまでどこかぎこちない。ガールは初めのうちギョッとした。というのは、映画が最初からコメディそのものを破壊しようとしているように思えたからだ。その責任は監督にあるのだろうが、ベルーシとエイクロイドも責任の一端を負わなければならない。

 一方、『ネイバーズ』はコロンビア映画配給の作品だったが、パラマウント映画の社長マイケル・D・アイズナーの反応は、このように綴られている。

「『ネイバーズ』をみてきたばかりだが、非常に素晴らしい映画だ。わたしは気にいっている。」そして、興行的には成功しないかもしれないが、あの映画がかもしだす不思議な暗さを考えれば、それもうなずけると付け加えた。

 『ネイバーズ』に描かれているのは、24時間にも満たないドラマだが、その間に、まるでひと晩の悪夢ででもあるかのように、新来の隣人が、主人公の家庭に何の遠慮もなく踏み込んでくる。

 最初に主人公の家の扉を叩くのは、セクシーなドレスに身を包んで色気を振りまくラモナという女だ。彼女はずかずかと家のなかに入り込んで、ソファでくつろぎ、家の主人を隣に座らせ、言葉と態度で誘惑していく。彼の妻は、キッチンで夕食の支度をしている。主人公は、誘惑に気づかないふりをしつつ、彼女の真意を確かめようとする。しかし、ラモナは、彼がキッチンの妻の様子を見にいっている間に姿を消している。ところが今度は、見知らぬ男が、まるで主人であるかのように居間のソファに腰掛け、当たり前のように夕食のメニューを聞いてくる。そして、家にまともな材料がないことがわかると、買い物に行ってくるから金を出せという。そればかりか、クルマが故障しているから、クルマを貸してくれという。そこで、しかたなくキーを取りに二階の寝室に行くと、勝手にシャワーを浴びたラモナが、全裸のままベッドにもぐり込んでいるといった具合だ。

 郊外の住人たちの社交的な関係については、すでに触れたとおりだが、この主人公もまた、そんな郊外のしきたりに従って、新来の隣人をオープンに迎え入れようとする。ところが、この隣人は、あまりにもあつかましく、しかも得体の知れないカップルであることがわかってくる。もちろん主人公は、彼らを何とか家から追い出そうとするが、その一方で、ラモナに対する好奇心を捨てることができない。そして、形式的な社交性と好奇心が入り混じった主人公の優柔不断な態度が、彼を抜きさしならない立場に追い込んでいくのだ。

 この謎の隣人との関係は、銃の発砲騒ぎや殴り合いへとエスカレートし、ついには、隣人の家が火災を起こして焼失し、カップルが家に転がり込んでくるはめになる。そして、ここまでくると、さすがに主人公の感情は、社交や好奇心といったレベルをはるかに飛び越えている。もちろん、彼は、この危険な隣人の化けの皮をはがし、悪夢から抜け出そうとする。

 ところが、それと同時に、主人公のなかには、まったく別な感情が芽生えている。彼は、『激突!』の主人公とタンクローリーの関係と同じように、信じられないような隣人の行動に、これまでにない刺激を覚えてもいる。そんななかで、主人公が、居間の壁にかかった三人家族の肖像画を見つめる姿は印象的である。というのも現実には、突然家に戻ってきたかと思った娘は、あっという間に若い男と出て行ってしまい、妻もアメリカの土着文化の研究と称して家をあけ、彼だけが取り残され、行き場を失いつつあったからだ。

 そして結局、彼は、絵に描いたような家族のかたちよりも、越してきて間もない得体の知れない隣人に強い絆を感じていることに気づく。なぜなら、映画のラストで彼は、家と家族を捨て、奇妙な隣人とともに、解放されたかのように嬉々として町を後にするからだ。しかも、彼は家を去る前に、肖像画を自分の頭でぶち破り、テレビを壁に投げつける。壊れたテレビからは火花が飛び散り、部屋に火が燃え移り、主人公は、煙が立ちのぼる家を後にするのだ。

 この映画は、象徴的なイメージを散りばめた心理劇として見ることができる。たとえば、行き止まりの通りの二軒の家とドロ沼や鉄塔からなる奇妙な光景は、登っていくための次の階段がもはや残っていない主人公の心象風景のように思えてくる。また、肖像画やテレビが象徴的に描かれていることはいうまでもない。そんなふうに考えると、この映画は、主人公の心の底に潜む不安や願望が、謎の隣人を作り上げてしまう妄想のドラマに見えてくるのだ。

 

■■行き止まりの通りに暮らす男たちの妄想■■

 そして、この『ネイバーズ』と比較してみると興味深いのが、ジョー・ダンテ監督の『メイフィールドの怪人たち』(89年)である。この映画には、『ネイバーズ』の焼き直しといえるくらい、共通する設定や展開が盛り込まれているからだ。

 『メイフィールドの怪人たち』の舞台は、メイフィールドという郊外の町の一角。"ミスター・サバービア"の主人公レイ・ピーターソンと彼の一家が暮らす家は、『ネイバーズ』と同じように行き止まりの通りにある。そして、こちらも、物語の展開のポイントになっているのが、新来の隣人である。その隣人が引っ越してきてから一ヶ月になるというのに、周辺で彼らの姿を見かけた人間がほとんどいない。そこで、主人公を中心とした行き止まりの通りの住人たちの好奇心に火がつき、妄想が膨らみ、ついには、家の爆発、焼失騒ぎにまで発展していくことになる。

 この映画が郊外居住者に対する風刺を狙っていることは、そのタイトルが端的に物語っている。邦題は、正体不明の怪しげな隣人の雰囲気にあわせて『メイフィールドの怪人たち』になっているが、原題は、郊外を意味する"the suburbs"を縮めた『The 'BURBS』なのだ。

 『ネイバーズ』の行き止まりの通りは、ドロ沼や鉄塔によってシュールなイメージを生み出していたが、メイフィールドの行き止まりも、映画の冒頭から、その閉塞感が巧みに強調されている。映画の冒頭には、映画会社のマークが浮かびあがるが、この映画では、そのマークも利用されている。ユニバーサルのマークには地球のイメージが使われているが、この映画では、そのマークの地球へと下降していく。そして、アメリカ大陸、その中部あたりにあるメイフィールドの町へとぐんぐん下降し、最後に主人公たちが暮らす通りをとらえるのだが、そこはまさに行き止まりの通りなのである。

 その通りは、まるで両隣と向かいの家が世界のすべてであるかのように閉ざされた空間であり、郊外のなかの孤島を思わせる。もちろん、変化といったものは、ほとんどないに等しい。休暇中の主人公レイは、向かいの隣人同士が犬のフンをめぐっていつものように争いをはじめるのを楽しみにしている。彼にとって、変化とはその程度のものなのだ。レイの隣人アート(問題の家とは反対側の隣人)は、レイの家にずかずか上がりこみ、自分の家であるかのように冷蔵庫から勝手に食べ物を取り出し、世間話をしながら、自分の家であるかのようにテーブルで食事を始める。彼らは、閉ざされた空間に長く暮らしているため、お互いの境界もないのだろう。


 
―メイフィールドの怪人たち―


◆スタッフ◆

監督   ジョー・ダンテ
Joe Dante
脚本

ダナ・オルセン
Dana Olsen

撮影 ロバート・スティーヴンス
Robert Stevens
編集 マーシャル・ハーヴェイ
Marshall Harvey
音楽 ジェリー・ゴールドスミス
Jerry Goldsmith

◆キャスト◆

レイ.   トム・ハンクス
Tom Hanks
キャロル キャリー・フィッシャー
Carrie Fisher
マーク ブルース・ダーン
Bruce Dern
リッキー コリー・フェルドマン
Corey Feldman
アート リック・ダコマン
Rick Ducommun
ウェルナー医師 ヘンリー・ギブソン
Henry Gibson

(配給:UIP)
 
 
 


 ところが、主人公は、休暇にもかかわらず、妻と子供の期待を裏切って、どこにも行こうとはしない。そんな彼にとって、引っ越してきた謎の隣人は、かっこうの気晴らしとなる。彼は、妻と子供だけを外出させ、近所の男たちと隣人の詮索を始める。ホワイトの『組織のなかの人間』には、転居してきた家族が、郊外のどの通りのどの位置に暮らすことになるかによって、サークルがわかれ、趣味や習慣まで変わるといった分析があったが、好奇心を刺激し合うことによる団結というのも、行き止まりという場所から生まれるある種の習慣といえるかもしれない。

 このドラマのなかでも、行き止まりは強調されている。主人公を含む三人の男たちは、隣から出たごみバケツに死体が入っていると信じ込み、ごみの回収にやって来た清掃員の作業を邪魔して、ごみを通りにぶちまけてしまう。そのとき、呆れた清掃員が口にするのは、「だから行き止まりの通りはいやなんだ」という台詞なのである。

 そして、この映画でもうひとつ印象的なのが、謎の隣人が暮らす家の様子である。この家は、周囲の家と建築様式が違ううえに、何の手入れもされず、ほったらかしになっている。壁はひび割れ、ペンキははげ、床も腐りかけ、庭には不気味なかたちをした木がはえている。それは、まるで幽霊屋敷である。しかも夜中に、地鳴りとともに地下室から強烈な光が漏れてくる。

 周囲の住人たちが好奇心をかき立てられるのももっともだが、現実に照らして考えるなら、いくら行き止まりの通りとはいえ、このこぎれいなメイフィールドのコミュニティが、こんな家を放っておくはずがない。という意味では、この家とその雰囲気に見合った風采をした隣人には、まったくリアリティが欠けている。

 しかし、これを妄想のレベルで考えるなら、そのイメージはとても興味深い。というのも、視界があまりにも良好で、影のない郊外の生活のなかで、人々が潜在的に求めるものは、郊外の世界から程遠いイメージであり、そのひとつがゴシック的な世界だと思われるからだ。ちなみに、この映画のプレスには、監督のダンテのこんなコメントが引用されている。「これは町の人々がどんな感情を持って生活しているか、彼らの動機は何か、彼らの妄想は何かを描いた話なのだ」

 というように、この映画の設定やイメージには興味をそそられるものがあるのだが、それだけにストーリーには不満が残る。なぜなら、好奇心が高じた主人公が、誤って隣人の家を吹き飛ばしてしまうことによって、妄想と現実の折り合いをつけるのが難しくなり、隣人が実は妄想通りの人間たちだったという陳腐な結末を準備しなければならなくなるからだ。

 そうなると、郊外という世界で、わざわざ人目を引くようなことをしているこの隣人は、あまりにもリアリティと説得力に欠けるおそまつな人々ということになってしまう。最後まで妄想と現実の境界が曖昧だった『ネイバーズ』とは対照的な結末といえる。

 ちなみに、この本では、ゴシック的なイメージと郊外の世界が、現実とファンタジーの境界で右とに折り合った作品として、第25章で、ティム・バートン監督の『シザーハンズ』を取り上げる。====>2ページに続く


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