第19章 こわばった郊外居住者の妄想―「ネイバーズ」「メイフィールドの怪人たち」「チェッキング・アウト」

ネイバーズ/Neighbors――――――――1981年/アメリカ/カラー/96分
メイフィールドの怪人たち/The Burb's――1989年/アメリカ/カラー/102分/ヴィスタ
チェッキング・アウト/Checking Out―――1989年/イギリス/カラー/95分
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(初出:東京書籍刊『サバービアの憂鬱』、1993年、若干の加筆)
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■■郊外から排除される死のリアリティ■■

 郊外の世界からかけ離れたものが、人々の妄想のきっかけになるならば、死というもののリアリティはどうしても無視するわけにはいかないだろう。なぜなら、人々は、死に対する不安や恐怖を遠ざけ、排除するために郊外にやって来るともいえるからだ。これまでの章から、そうした例をあげるのは難しいことではない。

 たとえば、チーヴァーの短編「ジャスティーナの死」で、ジャスティーナが現実に死亡しているにもかかわらず、死んだことにならなかったのは、コミュニティがゾーニングによって葬儀会社を遠ざけたことが根本的な原因だったし、「THE COUNTRY HUSBAND」の主人公は、隣人のパーティで、戦争や死が遠いもので、それを口にすることがタブーであることを痛感させられる。キングの『クージョ』の主人公は、ニューヨークに戻ればあの町に殺されるというように、大都会の生活が常に死と隣合せであることに怯え、郊外の安全な生活に執着する。また、大都会シカゴの喧騒を嫌って、メイン州の田舎町に転居した主人公一家の悲劇を描くキングの『ペット・セマタリー』では、一家の向かいに暮らす老人が彼らにこんなことを語る。

「――でもね、そうなる前に多少は死とおなじみになっておくのも悪くないと思うんですよ。ところが近ごろは……さあ、なんというか……だれもそのことを話したがらないし、考えたがらないみたい。それが子供によくない影響があるかもしれない、心に傷を残すかもしれないというんで、テレビからもそういう番組は消えちゃったし……家族が死んでも、お棺の蓋は閉じたままにしとくのが好まれるんですって。そうすれば、遺体と対面したり、お別れを言ったりしなくてすむから……なんだか早く忘れてしまいたいとしか思ってないみたい」

 この老人は、大戦や熱病、伝染病で死ぬ人々をたくさん見てきて、死に慣れ親しんでいるのだ。

 郊外の世界は、外部からの脅威を遠ざけ、死のリアリティを排除しているが、それでは、内部の、というか、心の防備の方はどうなのだろうか。

 デイヴィッド・リーランドが監督した映画『チェッキング・アウト』(89年)は、そんなことを考えさせる作品である。主人公のレイ・マクリンは、順風満帆の満ち足りた生活を送っている。彼は、幼なじみのパット・ヘイガンと同じ航空会社に勤め、ヘイガンは副社長で、レイもそれに継ぐポストにあり、仕事は安定している。ふたりは、それぞれの家族とともに、美しい山々と緑に囲まれた同じ郊外の町で、優雅な生活を送っている。




―チェッキング・アウト―



◆スタッフ◆

監督   デイヴィッド・リーランド
David Leland
脚本 ジョー・エスターハス
Joe Eszterhas
撮影 イアン・ウィルソン
Ian Wilson
編集 リー・パーシー
Lee Percy
音楽 カーター・バーウェル
Carter Burwell

◆キャスト◆

レイ

  ジェフ・ダニエルズ
Jeff Daniels
ジェニー メラニー・メイロン
Melanie Mayron
ハリー マイケル・タッカー
Michael Tucker
ダイアナ キャスリーン・ヨーク
Kathleen York
コニー アン・マグナソン
Ann Magnuson
パット アラン・ハヴェイ
Allan Havey

(配給:バウスシアター)
 
 
 


 ところが、レイが、パットの豪邸のプール・サイドで開かれたパーティに出席したとき、事件が起こる。レイの目の前で、バーベキューを焼いていたパットが、「イタリア人はどうしてバーベキューをやらないのか?」というジョークを話している途中で倒れ、そのままあの世に行ってしまったのだ。レイは、まさに自分の生活から最も遠いはずのものを目の当たりにし、ひどい不安からパニックに陥っていく。死のリアリティがきっかけとなって、ミスター・サバービアの妄想が始まるのだ。

 その晩、彼は、墓穴に落ちる夢を見る。穴のうえからは、家族や友人たちが、パーティ気分で彼のことを見下ろしている。死んだパットは、同じジョークを繰り返すが、その"オチ"を語ろうとはしない。あまりの恐ろしさにベッドから飛び起きたレイは、寝室の窓からパンツ一枚の姿で表に飛び出す。この町のセキュリティ・システムは万全で、誰かが窓から飛び出しただけで警報が鳴りひびき、数分で銃を持った警備員が駆けつけ、レイに銃を向ける。

 まさしくこの町は、万全の警備によって護られている。しかし、内面に抱え込んでしまった不安は、セキュリティ・システムではどうにもならない。しかも、外部に対する不安というものがまったくないだけに、意識が必要以上に内面に向かってしまい、妄想が膨らんでいくことになる。それが、この映画に盛り込まれたブラック・ユーモアなのだ。

 そこで、妄想にとらわれた主人公の涙ぐましい奮闘が始まる。彼は、パットが最後に言おうとしたジョークのオチを聞けなかったことが心に引っかかり、イタリア人についてのジョーク集を読み漁る。また、異常なしという検査結果が信じられず、精神科医のもとに送られ、さらには、血圧計、脈拍計、心拍数測定器、ポータブル酸素タンク、水治療法のための機械などを片っ端から買い集める。不安のために、セックスができなくなり、妻から秘書と浮気をしていると誤解され、病気ともいえない病気で死ぬと信じ込んでいる姿に愛想をつかされる。しかも、パットの代わりに副社長に昇進した彼は、会社の飛行機が起こした事故の処理のために、無理やり飛行機に乗せられ、現場に送られそうになるが、死の恐怖のために自ら爆弾騒動を巻き起こす始末なのだ。

 しかし残念ながら、この『チェック・アウト』では、妄想による騒動をきっかけに、主人公が自己を振り返ったり、あるいは、妄想が彼の心の奥底を照射していくような進展が見られないまま、ありきたりな結末を迎えてしまう。バカは死ななきゃ治らないのたとえではないが、彼は妄想ではなく、本当に虫垂が破裂して入院し、生死の境を彷徨ったあげく、目覚めたときに、パットのジョークのオチが閃くのである。

 この映画で、主人公のレイに扮しているのは、ジェフ・ダニエルズという俳優だが、彼は、ミスター・サバービアのような役が似合うらしく、次の章でもまた、彼が主演した映画を二本取り上げる。その二本でも彼は、涙ぐましい奮闘を繰り広げることになるが、そちらでは進展のある結末を見ることができる。

 

■■抽象的な幸福のなかで完結してしまう人生■■

 そして、この章の最後に、映画ではなく小説を一冊取り上げておきたい。それは、ジョン・コーエンという作家の最初の長編『Max Lakeman and the Beautiful Stranger』(90年)である。この小説も、ミスター・サバービアの妄想を描いた作品だが、その妄想の背景となる主人公の心理は、これまで取り上げたい映画とはいささか趣が異なる。

 この小説の主人公マックス・レイクマンが、まず何よりもユニークなのは、郊外の世界というものに強い愛着を持っているということだ。彼は、フィラデルフィアの郊外の町グラメントンで生まれ育ち、そのまま30年以上もの間、同じ町に暮らし続けている。彼はすでに結婚し、妻のネリー、ベンとノラというふたりの子供たちと平穏で幸福な生活を送っている。

 主人公は郊外の世界に強い愛着を持っていると書いたが、もっと厳密にいえば、彼が愛着を感じているのは、郊外を彩る緑の芝生である。彼は、実は芝刈りを仕事にしているのだが、次のような文章を読むと、そのユニークなキャラクターがおわかりいただけるだろう。

 ときどき、マックスは、芝刈り機の音と夏の日の暖かさでいい気持ちになって、われを忘れ、夢を見ることがあった。顔をあげると、まわりにあったものがすべて消え、彼が押していた芝刈り機もなくなり、彼は、すばらしい緑の芝生、完璧な緑色の海のなかにひとりきりになる。それは、とても幸せなひとときであり、彼が求めているのは、ネリーもベンもノラも忘れ、どこまでも続く芝生を自分だけのものにすることだった。

 彼は、同じ町にずっと暮らし、町の芝を刈って生活している。ほとんど町を離れることもなく、町と一緒に呼吸しているような人物である。もちろん、これは、現実的というよりは、郊外の世界を象徴するキャラクターといってよいだろう。

 そんな主人公マックスがとらわれる妄想は、一見すると悪夢からほど遠いもののように見える。というのも、小説のタイトルにもあるように、謎の美女が彼女の前に出没するようになるからである。彼女は、最初はあたかも幻であるかのように、裏庭の生垣の間から半裸で現れて一瞬にして消えたり、ヴァカンスに訪れた海から浮かび上がってきたりするが、次第にこの主人公の現実へと浸透してくる。つまり、まともに洋服を着て、夫とともに町に引っ越してくるのである。

 これは、主人公の家庭に対する不満やひそかな願望から生まれた妄想であれば、よくある話だが、この小説の場合は、そういうことではない。むしろ主人公は、幸福な家庭に十分満足しているし、これまでにも、仕事の最中に暇をもてあました主婦から誘惑されたこともあったが、まったく心が動かなかった。


《書籍のデータ》
●Max Lakeman and the Beautiful Stranger
by Jon Cohen (Black Swan, 1990)
 
 
 


 ということで、この小説では、いささか奇妙な表現ではあるが、実は主人公が幸福であることが、妄想の原因になっている。たとえば、主人公が家族とヴァカンスを過ごしているとき、彼の気持ちはこんなふうに描写されている。

 マックスには、現在の出来事を未来の時点から見る習慣があった。そのため、ペレッグズ・アイランドへの今回の旅行も、まだ終わっていないというのに、まるで遠い昔の出来事であったかのように、振り返るように見ていた。彼は、あまりにも幸せだった。彼とネリーは若く健康で、ふたりの子供はもっと若く、そして間違いなく、もっと健康だった。(中略)マックスは、幸運の神が輝く腕を彼の肩に置き、彼を終わりのない喜びに満ちた生活に導く様を思い浮かべた。さあ、すべてがいかにすばらしかったか思い出すんだ、マックスは自分にいいきかせた。満ち足りたペレッグズの時間を思い出すんだ。さあ、思い出せ、思い出すんだ。

 若く健康でという、このマックスの幸福感は、第5章で触れたアメリカン・ファミリーの抽象的な幸福を思い出させる。誰の目から見ても幸福であることは明らかだが、どこに向かうという指針があるわけでもなく、漠然とそこにとどまっている。あるいは、主人公が現在の幸福を感じるために、過去のことを思い出すかのような努力をしなければならないのは、その幸福が、あらかじめ約束され、ある意味ではすでに完結した世界のなかにあるからなのかもしれない。

 そして実は、主人公の前に謎の美女が現れるのは、彼が現在の幸福を思い出し、満足感と空虚さを同時に感じているときなのである。彼は、幸福を思い出して現在に復帰するたびに、家族との間に微妙な距離ができ、家族のなかのある種の異邦人となっているのである。そんな距離感が、この小説では、ユーモアたっぷりに表現されている。たとえば、家族が、芝生のグリルでハンバーガーを焼く郊外のお決まりの光景は、マックスの視点で、こんなふうに表現されている。

 異星人マックス・レイクマンは、芝生に置いた椅子に座って、枯れかけた桃の木のわずかな影から、彼の家族を観察していた。あの生物は何者だ? どうやって裏庭に入ったんだ? 彼らの目的は?
二匹いる小さな生物の一匹が振り向き、芝生の向こうから彼の方を見た。そいつは彼がいるのを見抜いていた。交信が始まる。そいつが口をきくと、マックスが驚いたことに、そいつは地球の言葉を自由に使いこなした。

 こうした距離感によって、主人公は、もうひとつの世界を作り上げていくことになるわけだ。そして、結局彼の妄想がどうなるかといえば、最後に彼は、謎の美女に誘われて海に入っていくところを、駆けつけた妻によって現実に引き戻されるのである。

 この小説は、重いテーマを扱うような作品ではないが、こうしてみると、郊外の幸福にどっぷりと漬かっているよりも、不安や密かな願望や好奇心に突き動かされている人々の方が、まだしも健全という気がしてくる。抽象的な幸福にどっぷりと漬かってしまえば、人生は完結してしまい、その向こうには、地上の楽園ではなく、天国だけが待っているだけなのかもしれない。


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《参照/引用文献》
『ベルーシ殺人事件』ボブ・ウッドワード●
井上篤夫編訳(集英社、1985)
『ペット・セマタリー』スティーヴン・キング●
深町眞理子訳(文春文庫、1989)

(upload:2006/06/24)
)
《関連リンク》
サバービアの憂鬱 第20章 エスケープ・フロム・サバーブス ■

 


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