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そのメッセージは、これまでこの本で取り上げてきた作品を踏まえて、このように表現することができる。もはや、タンクローリーや凶暴なサメ、狂犬病のセントバーナード、悪夢に悪霊、怪人ぐらいでは効果がない。ならば、もっと強引な手段で、往生際の悪い中流の代表者を、郊外の幻想から都市の荒野に引っぱりだし、その腐りきった性根を叩きなおしてしまおう。それが、『サムシング・ワイルド』に流れている一貫性の出発点だといえる。
その違いを明確にするために、この映画を、スピルバーグの『激突!』と比較してみよう『サムシング・ワイルド』で、『激突!』のタンクローリーの役割を果たすのは、もちろん謎の女ルルである。ちなみに彼女は、チャーリーをクルマに乗せている間に、彼の財布に入っていた写真を見て、彼に妻子があることを知っている。そこで2本の映画の比較だが、『激突!』の主人公がタンクローリーにさんざん翻弄されたように、チャーリーもまたルルに翻弄される。『激突!』では、タンクローリーが崖下に消え去った後、主人公は、一抹の寂しさを覚えつつも、夢のマイホームを護るために、虚しい仕事を黙々とこなすだけのわびしい日常に戻っていくことが暗示される。しかし、ルルはそう簡単にはチャーリーをマイホームに帰してくれない。というのも、彼女には、刑務所を仮釈放になったばかりの凶暴な元旦那がいたことが明らかになるからだ。その元旦那は、嫌がる彼女と無理やりよりを戻そうとする。チャーリーにしてみれば、自分はあくまで巻き添えにされただけで、しかも、ルルもこの小市民的な男に何も期待していないことが明らかなだけに、彼は、しばらく目をつぶってでもいれば、この災難から逃れることができる。ところが、彼の心の片隅にわずかに残る感情、穏便なエリート人生のなかで食い逃げをはかる程度のちっぽけな感情が、どうしたことかむくむくと頭をもたげ、彼自身を、見た目通りの人間で終わるか、男になるかの瀬戸際に追い詰めるのである。
というわけで、チャーリーは、滑稽に見えるほど不器用にではあるが、男になる道を選んでしまう。しかも、その時点ではまだ、どんなに恐ろしい男を敵にまわしてしまったかわかってはいない。監督のデミは、このようにして、チャーリーという主人公を抜き差しならない状況へと追い込んでいく。そのために、コメディだろうが、ロード・ムーヴィーだろうが、スリラーだろうが、おかまいなしに盛り込んでいくのだ。
こうしたごたまぜ感覚は、登場人物たちの立場を明確にする役割も果たしている。たとえば、ロード・ムーヴィーの要素は、ほんの遊び心でルルの婚約者を装うことになったチャーリーを、フィラデルフィアにある彼女の実家に運んでいくことになる。彼女の母親がひとりで暮らす家は、ノスタルジーを感じさせるような郊外住宅地のなかにある。ルルは、郊外の子供として成長したわけだ。
再会した母親と娘のやりとりには、彼女たちの関係の軋みを垣間見ることができる。チェンバロの演奏を披露する母親と、その場に居づらそうに耳を傾ける娘の姿は、娘が、堅苦しい家庭と郊外の幸福になじむことができなかったことを暗示する。そして、刑務所を出たばかりのルルの元旦那が登場するにいたって、幼なじみのこのふたりは、かつてこの保守的な町で"恐るべき10代"を体験し、結びついたカップルであることが察せられる。
そうした体験は、ふたりのキャラクターにも反映されている。このふたりとチャーリーの間で交わされる会話のなかに、それをよく物語る部分がある。たとえば、この元旦那は、ルルを守ろうとするチャーリーに向かって、「こいつは、ステーションワゴンじゃ我慢できない贅沢な女なんだ」という台詞を口にする。この台詞は、彼女が元旦那と完全に縁を切ることができても、決してミスター・サバービアになびくような女ではないということを意味する。
また、ルルにも同じような台詞がある。チャーリーは、元旦那にはめられ、コンビニ強盗の片棒をかつがされる。その後で元旦那は、チャーリーをそのまま帰したりしたら警察に通報するのではないかと危惧するのだが、そのときルルがこんな台詞を口にする。
「そんなことできるわけないわ。ひと言でも話せば、郊外の家もステーションワゴンも平和な生活も失うのよ。その話がウソでないなら」
ルルと元旦那は、過去の体験ゆえに、ミスター・サバービアに対して自然にそんな棘のある言葉が出てしまうのだろう。
こうなると、さんざんコケにされたチャーリーは、黙っていられないところだが、彼はさらにボロを出さざるをえなくなる。というのも実は、彼が妻子持ちだったのは過去の話で、妻子は家を出て医師の男のもとに走り、彼は独身の身だったのだ。にもかかわらず、財布に家族の写真を大事そうにしまい、マイホーム・パパのごとく仕事に精を出し、誰もいない郊外の家にすがりついていたというわけだ。しかし、そんなチャーリーは、ルルを選ぶことによってミスター・サバービアのイメージをかなぐり捨てていく。
ルルとチャーリーは、凶暴な元旦那から逃れてフィラデルフィアを後にし、チャーリーの家に隠れることにする。それは、外から見るかぎり夢の郊外の一戸建てだが、なかに入ってみると、妻子との思い出を刻み込んだ写真だけが以前の面影を残すだけで、広々としたリビングにはなにもなく、がらんとしている。そして、異色のスリラーへと展開する映画のクライマックスの舞台となるのが、この空虚な郊外の家なのである。
チャーリーとルルは、この家で元旦那と対決することになるわけだが、この3人はみな郊外と関わりを持っている。ルルと元旦那のカップルは、10代の頃に郊外の生活のなかで悲劇を体験し、郊外の住人というものに対して嫌悪感を持っている。ルルに襲いかかる元旦那が"サバーバン・ビッチ"という言葉で彼女を罵るのは、とても印象的である。一方、チャーリーは、ヤッピーが台頭してきた80年代の時流に乗り、その豊かさのなかで再び人々の夢となった郊外へと乗り出していった新しい世代の郊外居住者であり、しかも悲劇の体験者でもある。そして、それぞれに郊外で悲劇を体験した彼らは、空虚な一戸建てのなかで死闘を演じ、過去を清算し、決着をつけることになるのである。
この映画のラストはなかなか心憎い。会社を辞めたチャーリーが、かつて食い逃げをはかった食堂を出ると、そこにはルルが待っている。彼女の背後には、ちょっとユニークなかたちをしたワゴンがとめてある。ふたりは、都市の路上からクルマ一台で前進を始める。彼らがどこに向かうのかは定かではないが、郊外の町ではないだろう。
ちなみに筆者は以前、この映画の監督ジョナサン・デミにインタビューしたことがあるが、彼はチャーリーのキャラクターについて、このように語っていた。
「ジェフ・ダニエルズ扮する主人公は、資本主義のメカニズムに埋没してしまって、脳死したような男なんだ。それをメカニズムの外にいる人間が強引に誘拐する。これが、主人公にとってはメカニズムからの脱出になって、彼は人間性をとりもどしていくんだ」
■■郊外を飛び出し、都市に溶け込んでいくヒロイン■■
これまで取り上げてきたフィクションでは、郊外を出ていくような展開があっても、そのほとんどが、出ていくまでに重点が置かれ、どこに向かうのかが明確に描かれることはなかったが、『サムシング・ワイルド』では、新しい出発点として都市が魅力的に描かれている。この章の冒頭で、人々が実際に郊外から都市に戻る場合、その理由のひとつとして、人種や階級を問わず様々な人々と接触できるということがあると書いたが、デミもそれに近い考え方を持っている。
但し、デミの場合は、もっとはるかにスケールが大きい。彼は、グローバルな視点に立ち、異なる文化や人種、国と国との関係といったことに強い関心を持っているのだ。たとえば、彼は、『サムシング・ワイルド』を作った翌年の87年に、ハイチのドキュメンタリーを製作している。この作品にまつわる次のようなコメントを読むと、彼がハイチを単なる外国の出来事のようにはとらえていないことがおわかりいただけるだろう。
ハイチの人々が、民主主義を獲得するための、どれほど奮闘してきたのかということについて、アメリカ人ひとりひとりが、もっと関心を持たなければいけないんだ。なぜなら、アメリカ政府は、自国民に対して間違ったお金の使い方をしているからだ。アメリカにも民主主義はあるけど、それは、お金や家を持っている人々のもので、収入がない人や路上で生活している人たちにはあまり意味のないものなんだ。
このコメントには、第14章で触れたような80年代のアメリカに対する批判が込められているが、それはまた『サムシング・ワイルド』とも無縁ではない。この映画は、そんな80年代を象徴するような主人公に覚醒をうながし、都市へと呼び戻す作品であるからだ。という意味では、ハイチのドキュメンタリーは外側から、そして『サムシング・ワイルド』は内側から、アメリカに揺さぶりをかける作品だといえる。
この他にも、『サムシング・ワイルド』には、デミらしいセンスを随所に見ることができる。たとえば、バックの音楽は、主人公チャーリーを都市に呼び寄せるかのように、デイヴィッド・バーンとサルサの女王セリア・クルスのデュエットで始まり、シスター・キャロルのレゲエで終わる。また、映画にちょっとだけ顔を出すゲストにも、彼らしい人脈が浮かび上がる。白バイ警官に扮しているのは、『ブラザー・フロム・アナザー・プラネット』や『希望の街』など、マイノリティや都市の世界を通して、もうひとつのアメリカを描き出す監督ジョン・セイルズである。そして、中古車販売店のオーナーに扮しているのは、ジョン・ウォーターズなのだ。
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