第20章 エスケープ・フロム・サバーブス―『サムシング・ワイルド』、『トラック29』、『アラクノフォビア』

サムシング・ワイルド/Something Wild――――――――――――1986年/アメリカ/カラー/113分/ヴィスタ/ドルビー
愛されちゃってマフィア/Married to the Mob―――――――――-1988年/アメリカ/カラー/103分/ヴィスタ/ドルビーSR
トラック29/Track 29―――――――――――――――――――1987年/イギリス/カラー/90分/ヴィスタ/ドルビー
アラクノフォビア/Arachnophobia――――――――――――――1990年/アメリカ/カラー/109分/ヴィスタ/ドルビーSR
ストレート・アウト・オブ・ブルックリン/Straight out of Brooklyn――1991年/アメリカ/カラー/83分/ヴィスタ
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(初出:東京書籍刊『サバービアの憂鬱』、1993年、若干の加筆)
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■■様々なきっかけから郊外を出ていく人々に注目する■■

 この章は、タイトルにもあるように"郊外からの脱出"がテーマである。郊外居住者はいかにして郊外の世界を後にするのか。このことについては、もはや基本的な説明は不要だろう。これまで見てきた郊外化の現実や郊外の世界を描いた作品からも、様々なかたちでこのテーマに関わりのある要素が浮かび上がってきているからだ。

 たとえば、第6章で触れたように、50年代にも、実際に郊外から都市に戻ってくる人々がいた。その理由には、都市の方がプライバシーが確保できること、人種や階層を問わず様々な人々と接触できる、あるいは、友人関係の幅が広がるといったことがあげられていた。それから、60年代には、郊外を飛び出したヒッピーたちがいた。但し、彼らが、反=郊外的かどうかについて見解が分かれることは、第12章に触れた通りである。

 一方、フィクションでは、バックマン=キングの『痩せゆく男』などが、ひとつの典型といえる。この小説の主人公は、呪いを解いてもらうために、ジプシーを追って町を出るが、彼が妻に残す手紙にはこんな言葉も出てくる。

 アンディス・パブやランターン・ドライヴやカントリー・クラブ、薄汚い偽善的な町全体に自分がもう飽きあきしていることに気づいたんだ。わたしに事実その未来があったら、きみとリンダがほかのどこかもっと清らかな土地へいっしょについてきて、わたしと未来を共にしてくれればと願っている。きてくれなくても、あるいはきみらは無理でも、とにかくわたしはいく。

 郊外を描く作品には、主人公が、ある出来事がきっかけで、自分の生活や人生を振り返る展開が少なくない。そして、主人公が、その目覚めたに耐えられない場合には、その世界を出ていかざるをえないことになる。

 

 それから、郊外を生活や住人を風刺する作品にも、郊外を出るドラマが多く見られる。たちえば、映画『ポルターガイスト』は、トビー・フーパーが監督したことで体裁はあくまでホラーだが、その本質は、スピルバーグが悪意を込めて、主人公の一家を郊外から出て行かざるをえない状況に追いやるブラック・コメディである。

 あるいは、前の章で取り上げた『ネイバーズ』なども、とらえようによっては、この章に入れても面白い作品だと思う。主人公の潜在的な願望が妄想となり、町を出て行く結果になるようにも考えられるからだ。ちなみに、この章では、これと似た展開のある映画も出てくる。ということで、郊外からの脱出をユニークな視点で描いた映画を何本か取り上げてみたい。

■■郊外にすがりつく主人公を追い詰めていく謎の女ルル■■

 最初に取り上げる映画は、必ずしも郊外を舞台としているわけではなく、一見するとこの章のテーマとは無縁の作品に見える。物語の始まりも、大都会の街角である。

 ニューヨークの昼下がり、食堂で昼食をすませたいかにもヤッピー風の男が、食い逃げをはかる。彼の名前はチャーリー。翌週には副社長への昇進が決まっている、まさに出世街道をひた走るエリートである。

 彼の食い逃げはまんまと成功したかに見えたが、同じ店で食事をしていたルルという女が一部始終を見ていた。彼女は、奇抜なファッションできめた正体不明の女だ。チャーリーは、食い逃げの後ろめたさとささやかな好奇心から、会社までクルマで送るという彼女の誘いにのる。ところが彼女は、あらぬ方向に暴走を始める。途中で立ち寄った酒屋のレジから札をくすね、白昼堂々とモーテルに乗りつけ、あれよあれよという間に彼を手錠でベッドにくくりつけ、のしかかろうとするばかりか、財布の名刺をチェックして会社に電話を入れ、社長を呼び出してしまうのだ。

 後に『羊たちの沈黙』で成功を収めるジョナサン・デミ監督の88年の作品『サムシング・ワイルド』は、冒頭からこんな調子でたたみかけてくる。そしてチャーリーは、謎の女ルルにどこまでも振り回されることになるのだが、そのチャーリーに扮しているのが、前の章で取り上げた『チェッキング・アウト』に主演しているジェフ・ダニエルズなのだ。但し、作品の順番としては『サムシング・ワイルド』の方が古く、ジェフ・ダニエルズは、この『サムシング・ワイルド』で、予期せぬ出来事に巻き込まれ、悪戦苦闘する小市民的なキャラクターの第一歩を踏み出したといってよいだろう。

 この映画には、実に様々な要素が盛り込まれている。コミカルなラブ・ストーリーでもあるし、ロード・ムーヴィーでもあり、異色のスリラーともいえる展開もあり、風刺もふんだんに盛り込まれている。デイヴィッド・バーンやファイン・ヤング・カニバルズ、UB40、ニュー・オーダーといったセンス抜群のナンバーが散りばめられた音楽映画ともいえる。そんなごたまぜ感覚は、おそらく見る人によって好き嫌いが分かれることだろう。

 だが、どちらにしても、この映画の場合には、表層的な次元でごたまぜになっているのではなく、その底には一貫したメッセージがある。というよりも、一貫したメッセージがあるために、ユニークなごたまぜ感覚が生み出されているのだ。

 そのメッセージは、これまでこの本で取り上げてきた作品を踏まえて、このように表現することができる。もはや、タンクローリーや凶暴なサメ、狂犬病のセントバーナード、悪夢に悪霊、怪人ぐらいでは効果がない。ならば、もっと強引な手段で、往生際の悪い中流の代表者を、郊外の幻想から都市の荒野に引っぱりだし、その腐りきった性根を叩きなおしてしまおう。それが、『サムシング・ワイルド』に流れている一貫性の出発点だといえる。




―サムシング・ワイルド―



◆スタッフ◆

監督/製作   ジョナサン・デミ
Jonathan Demme
脚本 E・マックス・フライ
E. Max Frye
撮影 タク・フジモト
Tak Fujimoto
編集 クレイグ・マッケイ
Craig McKay
音楽 ジョン・ケイル、ローリー・アンダーソン
John Cale, Laurie Anderson

◆キャスト◆

ルル   メラニー・グリフィス
Melanie Griffith
チャーリー ジェフ・ダニエルズ
Jeff Daniels
レイ レイ・リオッタ
Ray Liotta
白バイ警官 ジョン・セイルズ
John Sayles
中古車ディーラー ジョン・ウォーターズ
John Waters
イレーネ マーガレット・コリン
Margaret Colin
地方判事 トレイシー・ウォルター
Tracey Walter

(配給:ワーナー・ブラザース)
 
 
 


 その違いを明確にするために、この映画を、スピルバーグの『激突!』と比較してみよう『サムシング・ワイルド』で、『激突!』のタンクローリーの役割を果たすのは、もちろん謎の女ルルである。ちなみに彼女は、チャーリーをクルマに乗せている間に、彼の財布に入っていた写真を見て、彼に妻子があることを知っている。そこで2本の映画の比較だが、『激突!』の主人公がタンクローリーにさんざん翻弄されたように、チャーリーもまたルルに翻弄される。『激突!』では、タンクローリーが崖下に消え去った後、主人公は、一抹の寂しさを覚えつつも、夢のマイホームを護るために、虚しい仕事を黙々とこなすだけのわびしい日常に戻っていくことが暗示される。

 しかし、ルルはそう簡単にはチャーリーをマイホームに帰してくれない。というのも、彼女には、刑務所を仮釈放になったばかりの凶暴な元旦那がいたことが明らかになるからだ。その元旦那は、嫌がる彼女と無理やりよりを戻そうとする。チャーリーにしてみれば、自分はあくまで巻き添えにされただけで、しかも、ルルもこの小市民的な男に何も期待していないことが明らかなだけに、彼は、しばらく目をつぶってでもいれば、この災難から逃れることができる。ところが、彼の心の片隅にわずかに残る感情、穏便なエリート人生のなかで食い逃げをはかる程度のちっぽけな感情が、どうしたことかむくむくと頭をもたげ、彼自身を、見た目通りの人間で終わるか、男になるかの瀬戸際に追い詰めるのである。

 というわけで、チャーリーは、滑稽に見えるほど不器用にではあるが、男になる道を選んでしまう。しかも、その時点ではまだ、どんなに恐ろしい男を敵にまわしてしまったかわかってはいない。監督のデミは、このようにして、チャーリーという主人公を抜き差しならない状況へと追い込んでいく。そのために、コメディだろうが、ロード・ムーヴィーだろうが、スリラーだろうが、おかまいなしに盛り込んでいくのだ。

 こうしたごたまぜ感覚は、登場人物たちの立場を明確にする役割も果たしている。たとえば、ロード・ムーヴィーの要素は、ほんの遊び心でルルの婚約者を装うことになったチャーリーを、フィラデルフィアにある彼女の実家に運んでいくことになる。彼女の母親がひとりで暮らす家は、ノスタルジーを感じさせるような郊外住宅地のなかにある。ルルは、郊外の子供として成長したわけだ。

 再会した母親と娘のやりとりには、彼女たちの関係の軋みを垣間見ることができる。チェンバロの演奏を披露する母親と、その場に居づらそうに耳を傾ける娘の姿は、娘が、堅苦しい家庭と郊外の幸福になじむことができなかったことを暗示する。そして、刑務所を出たばかりのルルの元旦那が登場するにいたって、幼なじみのこのふたりは、かつてこの保守的な町で"恐るべき10代"を体験し、結びついたカップルであることが察せられる。

 そうした体験は、ふたりのキャラクターにも反映されている。このふたりとチャーリーの間で交わされる会話のなかに、それをよく物語る部分がある。たとえば、この元旦那は、ルルを守ろうとするチャーリーに向かって、「こいつは、ステーションワゴンじゃ我慢できない贅沢な女なんだ」という台詞を口にする。この台詞は、彼女が元旦那と完全に縁を切ることができても、決してミスター・サバービアになびくような女ではないということを意味する。

 また、ルルにも同じような台詞がある。チャーリーは、元旦那にはめられ、コンビニ強盗の片棒をかつがされる。その後で元旦那は、チャーリーをそのまま帰したりしたら警察に通報するのではないかと危惧するのだが、そのときルルがこんな台詞を口にする。

「そんなことできるわけないわ。ひと言でも話せば、郊外の家もステーションワゴンも平和な生活も失うのよ。その話がウソでないなら」

 ルルと元旦那は、過去の体験ゆえに、ミスター・サバービアに対して自然にそんな棘のある言葉が出てしまうのだろう。

 こうなると、さんざんコケにされたチャーリーは、黙っていられないところだが、彼はさらにボロを出さざるをえなくなる。というのも実は、彼が妻子持ちだったのは過去の話で、妻子は家を出て医師の男のもとに走り、彼は独身の身だったのだ。にもかかわらず、財布に家族の写真を大事そうにしまい、マイホーム・パパのごとく仕事に精を出し、誰もいない郊外の家にすがりついていたというわけだ。しかし、そんなチャーリーは、ルルを選ぶことによってミスター・サバービアのイメージをかなぐり捨てていく。

 ルルとチャーリーは、凶暴な元旦那から逃れてフィラデルフィアを後にし、チャーリーの家に隠れることにする。それは、外から見るかぎり夢の郊外の一戸建てだが、なかに入ってみると、妻子との思い出を刻み込んだ写真だけが以前の面影を残すだけで、広々としたリビングにはなにもなく、がらんとしている。そして、異色のスリラーへと展開する映画のクライマックスの舞台となるのが、この空虚な郊外の家なのである。

 チャーリーとルルは、この家で元旦那と対決することになるわけだが、この3人はみな郊外と関わりを持っている。ルルと元旦那のカップルは、10代の頃に郊外の生活のなかで悲劇を体験し、郊外の住人というものに対して嫌悪感を持っている。ルルに襲いかかる元旦那が"サバーバン・ビッチ"という言葉で彼女を罵るのは、とても印象的である。一方、チャーリーは、ヤッピーが台頭してきた80年代の時流に乗り、その豊かさのなかで再び人々の夢となった郊外へと乗り出していった新しい世代の郊外居住者であり、しかも悲劇の体験者でもある。そして、それぞれに郊外で悲劇を体験した彼らは、空虚な一戸建てのなかで死闘を演じ、過去を清算し、決着をつけることになるのである。

 この映画のラストはなかなか心憎い。会社を辞めたチャーリーが、かつて食い逃げをはかった食堂を出ると、そこにはルルが待っている。彼女の背後には、ちょっとユニークなかたちをしたワゴンがとめてある。ふたりは、都市の路上からクルマ一台で前進を始める。彼らがどこに向かうのかは定かではないが、郊外の町ではないだろう。

 ちなみに筆者は以前、この映画の監督ジョナサン・デミにインタビューしたことがあるが、彼はチャーリーのキャラクターについて、このように語っていた。

「ジェフ・ダニエルズ扮する主人公は、資本主義のメカニズムに埋没してしまって、脳死したような男なんだ。それをメカニズムの外にいる人間が強引に誘拐する。これが、主人公にとってはメカニズムからの脱出になって、彼は人間性をとりもどしていくんだ」

■■郊外を飛び出し、都市に溶け込んでいくヒロイン■■

 これまで取り上げてきたフィクションでは、郊外を出ていくような展開があっても、そのほとんどが、出ていくまでに重点が置かれ、どこに向かうのかが明確に描かれることはなかったが、『サムシング・ワイルド』では、新しい出発点として都市が魅力的に描かれている。この章の冒頭で、人々が実際に郊外から都市に戻る場合、その理由のひとつとして、人種や階級を問わず様々な人々と接触できるということがあると書いたが、デミもそれに近い考え方を持っている。

 但し、デミの場合は、もっとはるかにスケールが大きい。彼は、グローバルな視点に立ち、異なる文化や人種、国と国との関係といったことに強い関心を持っているのだ。たとえば、彼は、『サムシング・ワイルド』を作った翌年の87年に、ハイチのドキュメンタリーを製作している。この作品にまつわる次のようなコメントを読むと、彼がハイチを単なる外国の出来事のようにはとらえていないことがおわかりいただけるだろう。

ハイチの人々が、民主主義を獲得するための、どれほど奮闘してきたのかということについて、アメリカ人ひとりひとりが、もっと関心を持たなければいけないんだ。なぜなら、アメリカ政府は、自国民に対して間違ったお金の使い方をしているからだ。アメリカにも民主主義はあるけど、それは、お金や家を持っている人々のもので、収入がない人や路上で生活している人たちにはあまり意味のないものなんだ。

 このコメントには、第14章で触れたような80年代のアメリカに対する批判が込められているが、それはまた『サムシング・ワイルド』とも無縁ではない。この映画は、そんな80年代を象徴するような主人公に覚醒をうながし、都市へと呼び戻す作品であるからだ。という意味では、ハイチのドキュメンタリーは外側から、そして『サムシング・ワイルド』は内側から、アメリカに揺さぶりをかける作品だといえる。

 この他にも、『サムシング・ワイルド』には、デミらしいセンスを随所に見ることができる。たとえば、バックの音楽は、主人公チャーリーを都市に呼び寄せるかのように、デイヴィッド・バーンとサルサの女王セリア・クルスのデュエットで始まり、シスター・キャロルのレゲエで終わる。また、映画にちょっとだけ顔を出すゲストにも、彼らしい人脈が浮かび上がる。白バイ警官に扮しているのは、『ブラザー・フロム・アナザー・プラネット』や『希望の街』など、マイノリティや都市の世界を通して、もうひとつのアメリカを描き出す監督ジョン・セイルズである。そして、中古車販売店のオーナーに扮しているのは、ジョン・ウォーターズなのだ。

 

 デミが『サムシング・ワイルド』に続いて監督した『Married to the Mob(ビデオタイトル:愛されちゃってマフィア)』には、チャーリーの立場を女性に置き換えたような展開もあり、デミの都市に対する関心がさらに明確になっていて興味深い。

 『愛されちゃってマフィア』の主人公は、マフィアの妻アンジェラである。彼女は、ひとり息子と三人で、郊外の高級住宅地で贅沢な暮らしをしている。だが彼女は、どんなに生活が豊かであっても、それが夫の血なまぐさい仕事に支えられているものだと思うと耐えられず、普通の生活を望んでいる。そしてついには、離婚まで考えるのだが、おめでたい夫は、冗談だと思って取り合おうとはしない。

 ところが、この夫は、なんとマフィアのボスの愛人にちょっかいを出していて、それがボスの知るところとなり、殺されてしまう。しかし、話はそこで終わらない。そのボスは、怖い奥さんがいるというのに、アンジェラにぞっこんで、ほとんど夫気取りで彼女の生活に割り込もうとする。そこでアンジェラは、ひとり息子を連れて、豪華な住宅を捨てて、郊外の町を後にする。さらに、アンジェラに疑惑を持ち、尾行を続けていたFBI捜査官も絡んでくることになる。

 アンジェラが引っ越したのは、ニューヨークのダウンタウンにあるぼろアパート。部屋は狭く、キッチンのど真ん中にバスタブが置かれているという代物だ。この展開は、チャーリーが郊外から都市へと乗り出す展開を想起させることだろう。この映画には、『サムシング・ワイルド』ほど鋭い風刺や挑発があるわけではないが、それでも、ストーリーに盛り込まれた郊外と都市の対比には、デミらしい視点がある。

 たとえば、この映画に出てくるふたつのヘアサロンは、それぞれに郊外と都市を象徴し、コントラストを生み出している。この映画の冒頭は、ヘアサロンのシーンから始まる。こちらのヘアサロンは、ギャングの夫人たちの溜まり場になっている郊外のそれで、アンジェラはもちろんそこの顧客だった。一方、都市に飛び出した彼女は、生活のために、偶然にもヘアサロンで働くことになる。こちらは、郊外のそれとは違い、人種が入り混じった世界で、彼女は、最初は大いに戸惑うものの、次第にそこに溶け込んでいくのである。

 『愛されちゃってマフィア』は、あくまでアンジェラとFBI捜査官を主人公にしたコメディ・タッチのラブ・ストーリーだが、この映画でデミが最も力を込めて描いているのは、アンジェラが、ぼろアパートにヘアサロンという都市の世界のなかで自立していく姿のように思えてならない。
=======>2ページに続く


 
―愛されちゃってマフィア―


◆スタッフ◆

監督   ジョナサン・デミ
Jonathan Demme
脚本

バリー・ストルガッツ、マーク・R・バーンズ
Barry Strugatz, Mark R. Burns

撮影 タク・フジモト
Tak Fujimoto
編集 クレイグ・マッケイ
Craig McKay
音楽 デイヴィッド・バーン
David Byrne

◆キャスト◆

マイク   マシュー・モディン
Matthew Modine
アンジェラ ミシェル・ファイファー
Michelle Pfeiffer
トニー ディーン・ストックウェル
Dean Stockwell
コニー マーセデス・ルール
Mercedes Ruehl
フランク アレック・ボールドウィン
Alec Baldwin
ローズ ジョーン・キューザック
Joan Cusack
カレン ナンシー・トラヴィス
Nancy Travis
牧師 デイヴィッド・ヨハンセン
David Johansen
レオナルド ジョー・スピネル
Joe Spinell
エド オリヴァー・プラット
Oliver Platt

(未公開ビデオ化)
 
 

 

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