第22章 新しいフロンティアのリアリティ
――『トゥルー・ストーリーズ』、『ゾンビ』、フレデリック・バーセルミ


デヴィッド・バーンのトゥルー・ストーリー/True Stories――――― 1986年/アメリカ/カラー/90分/スタンダード/ドルビー
ゾンビ/Zonbie: Dawn of the Dead――――――――――――― 1978年/アメリカ=イタリア/カラー/115分/ヴィスタ
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(初出:東京書籍刊『サバービアの憂鬱』、1993年、若干の加筆)
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 前章の最後に書いたように、本章では、これまでの郊外住宅地からエッジ・シティへと変貌を遂げていく世界を描いた映画や小説を取り上げていくことにする。

 最初に取り上げるのは、変わりゆくフロンティアを巧みなアイデアで視覚化した映画で、わかりやすい解説をしてくれる案内人まで登場するという実によくできた作品である。

■■デイヴィッド・バーンが描くエッジ・シティの世界■■

 それは、ロック・ミュージシャンのデイヴィッド・バーンが映画監督としてデビューした作品『トゥルー・ストーリーズ』(86年)だ(この映画の邦題は『デヴィッド・バーンのトゥルー・ストーリー』だが、まわりくどくなるので原題のカタカナ表記で統一する)。

 この映画の出発点になっているのは、バーンが、タブロイド版の新聞とか雑誌から拾い集めたおかしな実話の断片である。それから彼は、テキサスの歴史を扱った本や学術書、アメリカの風景をとらえた写真集などを読んだり、見たりして、この映画の世界を作り上げていった。写真については特に、ウィリアム・エグルストンやレン・ジェンシェル、ジョエル・スタンフェルドといった“ニュー・カラー”の写真家たちの作品集『The New Color Photography』と『New Color / New York』を参考にしたということだが、それはこの映画の色彩によくあらわれている。

 映画の舞台になるのは、150周年を迎えてお祭り気分にわくテキサス州にある架空の町ヴァージル。映画は、カウボーイ・ファッションに身を包んだ正体不明の男(デイヴィッド・バーン)が案内人となり、赤のコンバーティブルに乗ってこの町を訪れ、町の現在やそこに暮らす人々を紹介するかたちで展開していく。

 そして、この映画をご覧になればすぐに、ヴァージルの町が、前章で触れたようなエッジ・シティとしての形態をととのえ、発展しつつあることがおわかりいただけると思う。

 ヴァージルの町の現在の状況を簡単にまとめると、まずかつての町の中心だった大通りはいまは寂れて、閑散としてしまい、住人たちは続々と郊外に転居し、郊外には新しい住宅が次々と建てられている。町には、ダラスやフォートワースといった都市から伸びていると思われる高速道路が通っている。郊外には、広々とした空間を持ったモールがあり、また、バリコープ社というコンピュータ会社が、社屋と工場をでんとかまえている。まさに住みよい環境のなかで、住居と娯楽施設、職場がきれいに分化し、コミュニティを作っている現代的な都市なのである。

 
―トゥルー・ストーリーズ―


◆スタッフ◆

監督/脚本   デイヴィッド・バーン
David Byrne
脚本 スティーヴン・トボロウスキー、ベス・ヘンリー
Stephen Tobolowsky, Beth Henley
撮影 エド・ラックマン
Ed Lachman
編集 キャロライン・ビガースタッフ
Caroline Biggerstaff
音楽 デイヴィッド・バーン
David Byrne
製作総指揮 エドワード・R・プレスマン
Edward R. Pressman

◆キャスト◆

謎の案内人   デイヴィッド・バーン
David Byrne
バリコープ社のルイス ジョン・グッドマン
John Goodman
ベッドの女性 アリック・エリアス
Alix Elias
町の有力者アール・カルヴァー スポルディング・グレイ
Spalding Gray
アールの妻ケイ アニー・マッケンロー
Annie McEnroe
虚言症の女性 ジョー・ハーヴェイ・アレン
Jo Harvey Allen
(配給:ワーナーブラザース)

 この映画にはいろいろ驚きがあることと思う。デイヴィッド・バーンがいくらマルチな才人とはいえ、こうしたアメリカの新しい環境に関心を持ち、それを映画にしてしまうというのは驚きだし、86年という早い時期であることも驚きだ。しかしもっとすごいのは、ともすると学術的に語られがちな題材を、ポップなセンスで巧みに料理していることだろう。そして、前章でこうした環境の背景を確認している読者には、バーン扮するポーカーフェイスの案内人が、とぼけたふりをしつつもしっかり要所を押さえて、町を紹介しているのがおわかりいただけるはずだ。

 クルマでヴァージルの郊外に向かう彼は、高速道路の立体交差を横目に見ながら、こんなふうにコメントする。

「こういうフリーウェイが、この町をつくったのです。これこそ現代のシンボルという人もいます」

 それから、バリコープ社を誘致した町の有力者に案内されて、現在も拡張が進む町の周縁部を訪れたときには、建築途中の住宅を見ながらこうコメントする。

「ここが、いってみれば文明世界の最前線です」

 さらに、モールについては、コメントを紹介する前に字幕にすこし説明を加えておく必要がある。この映画の劇場公開の際にはどうなっていたのか思い出せないのだが、ビデオ版では、謎の案内人が口にする“ショッピング・モール”という言葉に対して、字幕では“ショッピング・センター”という訳がつけられている。もちろん前章で触れたように、一般的にはこのふたつの言葉が意味するものの境界は曖昧であり、日本語の場合にはショッピング・センターのほうが一般的であるところからこの訳語があてられたのだと思うが、この映画に限ってはちょっと問題がある。

 というのも、この案内人はモールについてまず、モールがオープンしたことで、都心中心型のデパートが次から次へと町から撤退していったと説明する。そのデパートは、前章でも触れたように、郊外におけるショッピング・センター発展の中核を担った店舗である。となると、この案内人の説明は、ショッピング・センターからモールへの移行を意味していることになり、この訳語は混乱を招くことになる。

 そして、実際にモールのなかを歩きながら、案内人の説明はさらにつづく。彼はモールが新しい町の中心だと説明する。それから、待ち合わせをしていた女性グループを見ながら、モールが買い物をするだけでなく、付き合いの輪を広げる場でもあると語る。また彼は、「いま何時?」と自分に問いかけ、ちらっとあたりを見て、「そんなことは気にしていない」という答えを出してみせる。ことわるまでもなく、これらはすべてモールの特徴を簡潔にまとめてみせたものである。ちなみに、映画のプレスによれば、この撮影に使われたのは、実際にはダラスにあるモールだということだ。

■■テレビ、モール、ハイウェイによって変貌するアメリカ南部■■

 とりあえず、要所だけを押さえた案内人のコメントだけを取り上げてみたが、この映画では、映像やちょっとした演出などでも監督バーンのセンスが光っている。言葉だけではなく、イメージからもいろいろなメッセージを読み取ることができるということだ。

 たとえば、この映画には、青い空と緑の大地が地平線で画面を二分するようなシーンが、何度となく象徴的に挿入される。そして、この原風景をバックに浮かび上がるのは、ヴァージルの郊外を彩る鮮やかな人工の色の数々である。このコントラストは、アメリカの新しいフロンティアを強く印象付けている。しかも、この映画では、その意味にもさりげない考察が加えられている。

 謎の案内人は映画の冒頭で、テキサスの歴史を遊び心たっぷりに、太古の昔から現代まで一気にたどってみせる。そのなかには、開拓時代があり、やがて様々な産業が起こり、この土地を繁栄にみちびいた。「最初は綿、それから牧畜、続いて石油、そして今はマイクロ・エレクトロニクス」と彼は語る。そして、こうした説明と関連して印象に残るのが、この案内人が、帽子からブーツまでカウボーイ・ファッションでかためていることだ。

 彼のファッションは、バリコープ社でもモールでも郊外住宅地でも浮いている。この映画のなかで彼の姿がさまになるのは、緑の大地とヴァージルのかつての大通りがせいぜいというところだろう。これが何を意味しているかといえば、南部の町ではあっても南部人らしい人物は見当たらない。新しいフロンティアのなかで、アメリカ人全体が均質化へと向かっているということである。

 この映画には、その背景を暗示するかのように、日常のなかでメディアのネットワークが町の住人たちを包み込む場面が、随所に盛り込まれている。住人たちがアフターファイブを楽しむモールに隣接したクラブでは、ステージのうしろに壁をつくるたくさんのビデオ・モニターが、断片的なイメージをまき散らす。町の教会の説教の場面では、なぜか祭壇にそなえられている巨大なスクリーンを通して、真実や現実を曖昧にする情報化社会、消費社会が、イメージのコラージュとして視覚化されている。

 それでは、前章で注目したテレビ、モール、高速道路などが住人たちをどのように包み込んでいるかというと、バーンは、先ほどのように端的なコメントを加えるばかりではなく、非現実性のほうにもしっかり目を向けている。

 テレビについては、決してベッドから出ることなく、テレビを相手に人生を送るすごい中年女性が登場する。彼女は、テレビから次々と流れ出すCMのシュールで毒々しいイメージにどっぷりとつかっているのだ。

 このシーンには、テレビのCMとビデオ・クリップをうまくだぶらせて、トーキング・ヘッズのアルバム『トゥルー・ストーリーズ』に収められた<ラヴ・フォー・セール>という曲が流れる。この曲には、「僕はいつもTVのついている家で生まれた」とか「愛してあげるよ/カラーTVみたいにね」といった歌詞が盛り込まれ、なかなかこのシーンに合っているのだが、この中年女性の姿を見て筆者が思い出すのは<テレヴィジョン・マン>という曲だ。この曲は、『トゥルー・ストーリーズ』の前にトーキング・ヘッズが発表したアルバム『リトル・クリーチャーズ』のなかに収められている。この<テレヴィジョン・マン>の歌詞は、こんなふうに始まるのだ。

僕は見ながら 夢見心地 生まれて初めてのことさ
内部にいると同時に 外側にもいる
そして 何もかもが本物なんだ

この感じが気に入っているかいって?

世界が僕の居間めがけて 崩れ落ちてくる時
僕がいまあるのはテレヴィのおかげさ
テレヴィのことをけなす人がいるけど
僕らはとてもいい友だちなんだ
(山本安見訳)

 映画のなかの中年女性といい、この<テレヴィジョン・マン>といい、バーンのユニークなところは、とかく風刺の対象になりがちな人物や設定を、温かく見守っているところだろう。ヴァージルの住人たちはみな、メディアから氾濫するイメージを泳ぐように生活を楽しんでいる。ある意味では、そうした非現実的な空間の広がりこそが、アメリカの新しいフロンティアであるのかもしれない。

 そして、モールやフリーウェイにも同じようなユーモアが盛り込まれている。モールのなかで開かれるファッション・ショーでは、芝生のスーツやワンピース、レンガの壁の柄のスーツ、ウェディング・ケーキ型のドレスといった不思議なファッションが次々と披露される。

 フリーウェイについては、先ほど触れた謎の案内人が、フリーウェイについてコメントする場面を思い出してもらいたい。この場面には、フリーウェイの実写とクルマに乗った案内人を合成した部分がある。この合成の場面では、クルマが作り物と入れ替わっていて、案内人はハンドルを根元からぐらぐら揺さぶってみせる。フリーウェイについて説明する部分に、わざわざこうした演出をするあたりは、やはりフリーウェイの非現実的な要素を意識しているように思える。

 このように見てくると、映画『トゥルー・ストーリーズ』は、新しいフロンティアであるエッジ・シティの形態や機能ばかりでなく、その環境がもたらす非現実的な要素も描いていることになる。ただし、デイヴィッド・バーンは、傍観者に徹し、この新しい世界に対して何らかの判断をくだそうとはしない。

 この映画の最後で、クルマで町から遠ざかっていく案内人が口にするコメントは印象的である。その要旨は、初めて行った場所ではあらゆるものに気をとめるが、しばらくしてもはや何も気にしなくなったときに、現実が見えてくるということだ。

 この映画は、そうした現実を探る手がかりを与えてくれる作品といえるかもしれないが、それでは今度はこの映画を踏み台に、その現実を掘り下げていくことにしよう。
=====>2ページに続く


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