第23章 ゲイの浸透と新しい家族の絆
――デイヴィッド・レーヴィット、A・M・ホームズ、マイケル・カニンガム


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(初出:東京書籍刊『サバービアの憂鬱』、1993年、若干の加筆)
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■■注目すべきゲイ・フィクションの台頭■■

 第21章、第22章では、郊外の変貌について書いたが、この章から先を読みすすむにあたっては、いちおう頭を切り換えていただく必要があるかもしれない。つまり、モールやエッジ・シティへと変貌する郊外もあれば、まったく昔ながらの郊外や荒廃が進んでいく郊外もあるということだ。しかも、郊外の変貌とはいっても、緑のある一戸建ての生活がなくなってしまうわけでもない。要するに、ライフスタイルには広がりができるとしても、アメリカン・ファミリーの基本的なかたちが変わってしまうわけではないのだ。

 この章では、ゲイの作家の小説を中心に話を進めたいと思う。唐突にゲイの作家を取り上げるというと、おそらく読者は戸惑いを覚えることだろう。ゲイとアメリカン・ファミリーというのは、対極の世界にあるように見える。

 確かに、アメリカン・ファミリーが郊外であるなら、ゲイは都市に根ざした存在で、いわば水と油の関係である。しかも、ゲイの小説は日陰の存在だったが、80年代に入った頃からその状況が変化していく。ゲイの小説が陽のあたる場所に進出し、ついにはブームにまでなり、大手出版社が次々と出版に乗り出すまでになった。そして日本でも、マイケル・シェイボンの『ピッツバーグの秘密の夏』やエドマンド・ホワイトの『美しい部屋は空っぽ』といった話題作を皮切りに、ゲイの新しい小説が翻訳、紹介されるようになってきている。

 ひと昔前であれば、自分がゲイであることを認めることは、まず何よりも政治的姿勢とみなされた。そしてゲイに関する書籍も、彼らの存在の政治的側面にスポットをあてることが多かったが、それも変わってきている。

 たとえば、コーネル医科大学で精神医学の臨床講義をしている医学博士リチャード・A・アイセイが書いた『Being Homosexual』という本が89年に出ているが、この本の内容にはそれがよく表れている。これは、“ゲイであること”に対する誤解や偏見をぬぐりさり、ゲイとしてのアイデテンティティをしっかりと認識し、積極的に生きていくために、ゲイの人々や彼らの家族、セラピストに向けて書かれた専門的な本だ。

 つまり、ゲイのことを病的なものと考えているセラピストが、患者を無理やり異性愛者に変え、不幸な結婚を招いたりするといった過ちを避けるために書かれたものなのである。ちなみに、これから取り上げる小説のなかには、ゲイでありながら女性と結婚して家庭を持ち、子供までつくりながら、結局、昔の恋人のところに戻るといった設定も出てくることになる。

 それでは実際に小説をみていくことにしよう。これから取り上げていく何本かの小説には、ゲイの登場人物たちのドラマが描かれているが、そこには、様々なかたちでアメリカン・ファミリーというものが影をおとしている。ここで特に注目しておきたいのは、ゲイとアメリカン・ファミリーがどのように結びつき、変化していくかということである。

 
《データ》
 
being homosexual
Being Homosexual: Gay Men and Their Development by Richard A. Isay●
(Avon, 1989)
 
jack
Jack by A. M. Homes●
(Vintage Contemporary, 1989)
 
『愛されるよりなお深く』
デイヴィッド・レーヴィット●
幸田敦子訳(河出書房新社、1991年)
 
『この世の果ての家』
マイケル・カニンガム●
飛田野裕子訳(角川書店、1992年)


■■郊外のアメリカン・ファミリーと都市のゲイの往還■■

 レーヴィットの短編集『ファミリー・ダンシング』は、すでに第13章で一度取り上げているが、まずここでは、この短編集のなかから「テリトリー」という作品を取り上げてみたい。この短編は、23歳のゲイの主人公ニールが、恋人のウェインを実家に招待し、彼の母親に引き合わせるといった展開が中心になる物語である。つまり、ゲイのカップルが、郊外の家庭を訪ねるというわけだ。

 しかし、郊外の家庭とはいっても、ニールの母親のキャンベル夫人は、崩壊した家庭のイメージを背負っている。彼女は、同世代の女性三人でサークルを作っている。そのうちのひとりは、22年前に夫が彼女のもとを去り、もうひとりは、結婚と離婚を二回し、テロ行為で懲役に服している娘がいる。キャンベル夫人にはまだ夫がいるが、仕事で家を空けることが多く、すでに遠い存在になってしまっている。彼女はプールもある家で、三匹の犬たちと静かに暮らしている。レーヴィットは、そんな三人の感情を、「彼女たちはみな一様に、夫に、子供たちに、そして歴史に裏切られたと感じている」というように結んでいる。

 後に取り上げるレーヴィットの長編『愛されるよりなお深く』もそうだが、キャンベル夫人が背負っているものは、レーヴィットの描く母親像全般に少なからず共通している。そして、これを主人公ニールも含めた子供の立場からみると、崩壊する家庭で育ったということにもなるが、本章の後半では、レーヴィットの作品に限らず、そうした体験を経て成長した登場人物たちが、どのような新しい家族の絆をつくりあげていくのかが中心的なテーマになる。

 話を「テリトリー」のキャンベル夫人に戻すと、彼女にとっては、息子からゲイであることを告白されることが、“子供たちに、そして歴史に裏切られた”ことになる。ひと昔前であれば、親子の絆は途切れてしまったことだろう。しかし、キャンベル夫人は傷つきはするものの、母親ゆえに自分を変えようと心がけもする。彼女は息子の“裏切り”に対して、こんなふうに行動する。

 息子がホモであることを告白した翌日には、早くも「レズとゲイの子供を持った両親の連絡会」と呼ばれる組織とコンタクトをとり、一年もたたないうちにその組織の会長の座に就いている。そして彼女は、組織に属するほかの母親たちとともに、週末になるとサンフランシスコまで出かけていき、<ブルドッグ・バス>や<リバティ・バス>といったゲイの溜り場になっているバスハウスの前にパラソル付きのテーブルを出して、自分に母親がいることさえ認めたがらない革ジャンにデニムのズボン姿の男たちに根気よくパンフレットを配りつづけた。不思議なことに、ふだんはお互いに暴力を振るい合っている男たちも、広報用のパンフレットを手にして郊外からやってきた婦人たちの前では驚くほど従順に頭をたれたものだった。

 そんなふうにして母親が何度となく都市に足を運び、そして今度はゲイの息子が、恋人といっしょに郊外に足を運ぶ。この章の最初のほうで、ゲイの存在をめぐって都市と郊外は水と油の関係だと書いたが、この短編は、このように母親と息子の関係に郊外と都市をだぶらせ、その変化を描いている。

 この短編から、郊外の実家に恋人とやってきた息子の戸惑いや、この息子の記憶のなかの母親の戸惑いがくっきりと浮かび上がってくるのは、息子と母親のあいだに都市と郊外の境界をさりげなく描きこんでいるからだ。

 息子のニールは、母親の前で恋人とどのように振るまえばいいのか、母親の家で恋人と寝ることが果たしてできるのか、といったことを考え込み、ナーバスになる。しかし、恋人のウェインがニールの手を握っても母親は取り乱すことがなく、「幼年時代から培われてきたタブーの数々がひとつひとつ静かに崩れさっていく」ことになる。

 しかし、タブーがあっさり崩れることは逆に、母親にまつわる過去の記憶をよみがえらせることになる。昔、母親は、ニールとともにゲイのパレードに参加したことがある。そのとき彼女は、ゲイの息子を心から誇りに思っている同じグループの母親が、緑のドレスに身を包み、緑色のアイシャドウに唇をピンクに塗った彼女の息子を抱きしめるのを見て、仰天してしまう。

 ニールは、母親の顔に苦悩の表情を見て、しばらくのあいだ後悔の念に苛まれた。おそらくその日、母親は、可能なら、誰の息子とでも自分の息子を交換したに違いない。

 この短編の「テリトリー」というタイトルは、直接的には母親が飼っている犬が、おしっこをかけてつくる“テリトリー”からきているが、もちろん息子と母親それぞれの都市と郊外というテリトリーを象徴している。この短編は、お互いのテリトリーに入っていく息子と母親の感情の揺れを描いているのである。=====>2ページに続く


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