第25章 90年代を予感させる歪んだ郊外のイメージ
――『ヘザース』、『アップルゲイツ』、『シザーハンズ』、A・M・ホームズ、『パパの原発』


ヘザース・ベロニカの熱い日/Heathers―――――――――― 1989年/アメリカ/カラー/103分/ヴィスタ
アップルゲイツ/Meet the Applegates―――――――――― 1990年/アメリカ/カラー/90分/ドルビー
シザーハンズ/Edward Scissorhands――――――――――― 1990年/アメリカ/カラー/98分/ヴィスタ/ドルビーSR
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(初出:東京書籍刊『サバービアの憂鬱』、1993年、若干の加筆)
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■■80年代アメリカの保守化と50年代への回帰■■

 ここまで書いてきたことを振り返ってみると、時代による状況や人々の意識の変化が、様々なかたちでそれぞれの時代の作品に反映されていることがおわかりいただけるだろう。

 本章では、前章でたどった80年代後半の状況が反映された映画や小説を取り上げることになるが、その前に、これまで80年代から浮かび上がってきたイメージが、どのように入り組んでいるのかを簡単に整理しておきたい。

 第14章や前章でも触れたように、アメリカの80年代は保守化が進む時代である。

 ジョン・ヒューズは、そんな時代の豊かではあるがとりたてて何もない上層中流家庭のティーンの感情を、巧みなドラマのなかに描きだした。しかしその一方では、『エルム街の悪夢』に描かれた郊外のティーンに襲いかかる悪夢が、不気味な説得力で迫ってくる。前章で書いたトミー・サリヴァンの事件で、彼が自分の部屋のドアに『エルム街の悪夢』のフレディのポスターを貼っていたことはとても印象的だった。

 アメリカの保守化を導いたのはいうまでもなくレーガン政権だが、このレーガン大統領の出発点が、強いアメリカの前進を主張する以前に、まず古き良きアメリカという過去を人々のなかに呼びさまし、その部分に訴えかけたことにあるのはよく知られている。

 一方、80年代の映画や小説に目を向けてみると、様々な作品から50年代のイメージが浮かび上がってくる。第1章で取り上げたリメイク版の『リトル・ショップ・オブ・ホラーズ』もそうだし、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』などは、主人公が50年代に行ってしまうストーリーが何とも象徴的である。

 それから、スティーヴン・キングやデイヴィッド・リンチも見逃すことができない。50年代からよみがえった怪物に身も心もむしばまれていく若者を描いた『クリスティーン』は、恐るべき予言の書といえるかもしれない。一方、リンチは、50年代のイメージの向こうに80年代の暗闇を描きだし、ジャンルを問わず多くのアーティストに影響を及ぼしている。

 そして、ここでこれから取り上げるのは、主に89年と90年に発表された映画や小説だが、実際に作品をたどっていけば、すぐにそれらの作品が、いま書いたような流れや前章で触れた状況のなかから生まれてきているのがおわかりいただけるだろう。

■■80年代後半の事件や風潮を逆手にとる――『ヘザース』■■

 最初に取り上げるのは、マイケル・レーマン監督の二本の作品である。

 一本目は、レーマン監督のデビュー作『ヘザース・ベロニカの熱い日』(89年)だ。この映画をご覧になる方は、ドラマのいろいろな部分で、前章で取り上げた出来事や設定が頭をよぎることだろう。レーマンはそうした状況を鋭く見つめ、しかも、現実をひっくり返すかのように逆手にとるユニークなドラマからは、ティーンを主人公にしたこれまでの映画とは異質なキャラクターも浮かび上がってくる。

 タイトルにもなっている“ヘザース”というのは、この映画に出てくるハイスクールに通う女生徒三人組で、それぞれにヘザーを名のり、校内を大手を振って歩きまわる嫌われ者たちである。しかし、映画のヒロインとなるのはこのヘザースではなく、彼女たちにつきまとわれている女生徒ベロニカ(ウィノナ・ライダー)だ。ベロニカは内心では彼女たちを嫌っているが、しかたなくつきあい、ときには同級生いじめを手伝わされたりしている。

 ところで、この映画の冒頭では、クレジットのバックから、ヘザースの三人組を使った興味深いイメージがみえてくる。

 緑の芝生に置かれた白い椅子に三人の娘が腰かけている(もちろんこのとき、彼女たちはごく普通のティーンに見える)。彼女たちをとりまくのは、赤い花が咲く白い柵の花壇である。この雰囲気と色使いは、やはり『ブルー・ベルベット』の冒頭の部分を連想させる。そして、バックに流れる音楽も、ボビー・ヴィントンの<ブルー・ベルベット>とはいかないが、<ケ・セラ・セラ>なのだ。この曲は、ドリス・デイが歌って50年代半ばに爆発的なヒットとなった50年代を代表する曲だが、ここではアレンジがヴァン・ダイク・パークス、歌がスド・ストロウのヴァージョンが使われている。

 この場面だけを見ると、甘い恋を夢見る乙女の映画かと思うところだが、その娘たちが見事にそろった足並みで花壇の赤い花を踏みつけ、去っていくところで、この50年代風ののどかな雰囲気は突然断ち切られる。この演出はなかなか暗示的なイメージになっている。これは筆者の勝手な想像だが、この演出は、保守化によって健全なアメリカをとり戻そうとしても、80年代のティーンはもうそんな場所にはいないのだというメッセージがこめられているように思う。実際この映画からは、歪んだブラック・ユーモアを通して、80年代のティーンの世界が浮かび上がってくるのだ。

 話を映画のストーリーに戻すと、ヒロインのベロニカは、学校に転校してきて間もないJD(クリスチャン・スレイター)と知り合い、どことなく大胆な彼に惹かれていく。ところがJDの大胆さは、ベロニカの想像をはるかにしのいでいた。

 ある日、ヘザースのリーダー、デュークにつきあって散々な目にあったベロニカは、その翌朝、JDを連れてデュークの家に彼女をとっちめにいく。ベロニカにすれば、デュークに痰の入ったミルクでも飲ませて、うさをはらすつもりだったが、JDは勝手にトイレの洗浄剤を混ぜ、それを飲んだデュークは死亡してしまう。ふたりは偽の遺書をつくり、デュークの死を自殺に見せかける。

 
―ヘザース・ベロニカの熱い日―


◆スタッフ◆

監督   マイケル・レーマン
Michael Lehmann
脚本 ダニエル・ウォーターズ
Daniel Waters
撮影 フランシス・ケニー
Francis Kenny
編集 ノーマン・ホリン
Norman Hollyn
音楽 デヴィッド・ニューマン
David Newman

◆キャスト◆

ベロニカ   ウィノナ・ライダー
Winona Ryder
JD クリスチャン・スレイター
Christian Slater
ヘザー(デューク) シャナン・ドハティ
Shannen Doherty
ヘザー(マクナマラ) リザンナ・フォーク
Lisanne Falk
ヘザー(チャンドラー) キム・ウォーカー
Kim Walker
ポーリン・フレミング ペネロープ・ミルフォード
Penelope Milford
ベティ・フィン レネ・エステヴェス
Renee Estevez
(配給:日本ヘラルド映画)
 
―アップルゲイツ―


◆スタッフ◆

監督/脚本   マイケル・レーマン
Michael Lehmann
脚本 レッドビアード・シモンズ
Redbeard Simmons
撮影 ミッチェル・デュービン
Mitchell Dubin
編集 ノーマン・ホリン
Norman Hollyn
音楽 デヴィッド・ニューマン
David Newman

◆キャスト◆

リチャード・P・アップルゲイト   エド・ベグリーJr.
Ed Begley Jr.
ジェーン・アップルゲイト ストッカード・チャニング
Stockard Channing
アント・ビー ダブニー・コールマン
Dabney Coleman
ジョニー・アップルゲイト ボビー・ジャコビー
Bobby Jacoby
サリー・アップルゲイト カミ・クーパー
Cami Cooper
グレッグ・サムソン グレン・シャディックス
Glenn Shadix
(配給:日本ヘラルド映画)
 
 
 
 

 この一件は自殺でかたがつくが、話は終わらない。次は、これまたハイスクールを大手を振って歩くスポーツ選手の二人組である。彼らは、ベロニカを思い通りにできない腹いせから、ふたりで彼女をもてあそんだという噂を学校中に流す。そこでベロニカは、JDの入れ知恵でふたりを空砲の銃で脅かそうとたくらむ。ところがJDは、銃に実弾を入れていたというわけだ。結局、JDは、ふたりがホモであることに悩んで自殺したように見せかける。

 これは、真相を知らない生徒や両親、学校側にとっては、連続するティーンの自殺という深刻な問題である。

 前章で触れたバーゲンフィールドや(自殺ではないが)グレン・リッジの事件では、マスコミがおしよせることによって、ヒステリックな騒ぎが巻き起こっている。というのも、学校の名前に傷がついて進学に支障をきたすことを心配する人々や、ヘヴィメタの悪影響を糾弾する人々、あるいはこれまで発言する機会がなかったティーンの思惑などが入り乱れ、騒ぎをエスカレートさせるからだ。

 この『ヘザース』は、明らかにそうした風潮を意識してつくられている。当然のことながら学校にはマスコミが押しよせ、騒ぎが広がっていく。ハイスクールの生徒のなかからは、以前からコンプレックスをかかえていて、騒ぎのなかで本当に自殺をはかってしまう娘が出る。また、ロックについては、<自殺は遊びじゃない(Teenage Suicide Don’t Do It)>をヒットさせたバンドをハイスクールに呼ぼう、といったエピソードも盛り込まれている。

 監督のレーマンは、まったく予想もしない皮肉な展開を通して、こうした風潮を描きだしている。そして、真相を知っている観客は、このヒステリックな騒ぎを、距離を置いたさめた視点で見直すことになる。

 また一方でこの映画は、ベロニカのある種の成長を描く物語にもなっている。彼女は以前はヘザースに振りまわされ、今度はJDに深入りしていくが、奇妙な混乱のなかで抜きさしならない状況に追い込まれることで、自己の境界というものを発見していくことになるからだ。

 この『ヘザース』は、前章で触れたような状況を通過しなければ、決して生まれてこない作品なのだ。

■■アメリカン・ファミリーに対する痛烈な風刺――『アップルゲイツ』■■

 先ほど『ヘザース』の冒頭のシーンについて、健全なアメリカと80年代の落差を暗示しているといったことを書いたが、『ヘザース』に続くレーマンの作品『アップルゲイツ』を観ると、そのことがさらにはっきりする。

 そしてこの『アップルゲイツ』でもレーマンは、まったく予想もしない展開を通して、異なる視点から80年代の現実を浮き彫りにするアイデアをひねりだしている。ちなみに、この映画でレーマンのターゲットになるのはティーンではなく、ずばりアメリカン・ファミリーである。

 『アップルゲイツ』は驚くことに、乱開発が進むアマゾンの熱帯雨林から始まる。そのジャングルのなかには、いまだ人類に発見されていない巨大なカマキリのような昆虫ココラダ虫が棲息している。アメリカン・ファミリーとはほど遠い世界だが、実は高度な知性を持ったこのココラダ虫が、種の保存のために人間に姿を変え、原発を破壊するという使命をおびてアメリカの郊外住宅地にやってくる、というのがこの映画の基本的な設定なのである。

 ひどく突飛な設定のように思えるが、物語の展開に散りばめられたレーマンらしいユーモアは、この設定を奇妙な説得力を持ったドラマに変えていく。

 たとえば、この設定からはなぜ彼らが郊外に行くのかという疑問が浮かんでくる。その答えは、ココラダ虫たちは、アメリカからアマゾンにやって来たボランティアが残した英語教材「ディック&ジェーン」を手に入れ、参考書にするということだ。その教材には、アメリカの最も一般的な中流家庭が描かれている。一般的ということは、目立たない、そして使命遂行に理想的ということになる。そこで彼らは、アップルゲイト一家となって、オハイオ州の郊外の町メディアンにやって来る。

 アップルゲイト一家は、パパのディック、ママのジェーン、18歳の娘サリー、15歳の息子ジョニーの四人家族で、愛犬スポットがこれに加わっている。キャスティングされた俳優といい、郊外の家の雰囲気といい、彼らが庭の芝生に並ぶと、すこしあか抜けていないところまで含めて、まるで50年代のホーム・ドラマか、マイナーな商品のCMのようである。

 そして、考えてみると、彼らが教材を見ながら、50年代の典型的な中流に同化しようとする姿は、そのまま50年代にせっせと雑誌広告の世界に同化していった中流の人々のカリカチュアになっている。しかし、ココラダ虫の場合は使命で努力しているだけあって、一家の主人は、教材で学んだ生活について、退屈だが使命を果たすまでの辛抱だといいきかせ、家族をはげます。そのパパは、パソコンで国勢調査のデータに細工し、そして原子力発電所に技術者として就職し、使命遂行の機会を待つことになる。

 それではアップルゲイト一家が、実際に典型的な中流を演じきれるかといえば、それどころではない。『ヘザース』の冒頭のシーンではないが、彼らが暮らすのは現代の郊外である。景観は同じようにみえても、中身は違う。そして、そんな中身の違いは英語教材に載っているはずもない。だから彼らは、50年代のイメージをぶち壊し、現代に向かって疾走をはじめる。

 ハイスクールのチアガールになった娘は、とたんに色気づき、隣の家に住む男の子とすぐさまセックスということになり、快感のあまり本来の姿に戻ってしまう。秘密を知られた彼女は、ココラダ虫の必殺技で彼を繭に閉じこめ、部屋に隠す。しかも、妊娠までして男に懲りた彼女は、今度はフェミニストの闘士と恋人同士になり、現代へと突っ走る。息子はヘヴィメタ・キッズとお友だちになり、マリファナを試してハイになり、娘と同じ運命をたどる。

 ママは近所の有閑マダムに消費の楽しみを教えこまれ、ガード地獄の果てにコンビニ強盗が露見し、警官を繭に閉じこめるはめになる。パパはといえば、物欲のかたまりとなって夜のお相手をしてくれないママのせいで、会社の秘書に手を出して、それがもとでクビになる始末だ。

 しかも、そんなときに「ファミリー・バザー」誌の編集者が、アップルゲイト一家がアメリカの典型的な中流家庭の代表に選ばれ、豪華な賞品を獲得したことを知らせにやって来る。もちろん、そこで編集者が目の当たりにするのは、ぼろぼろになったアメリカン・ファミリーの姿である。

 監督のレーマンは、『アップルゲイツ』についてこのように語っている。

「この映画はアメリカン・ファミリーの価値についての風刺であり、アメリカにおける正常なるものについての風刺である」(『アップルゲイツ』プレス資料より引用)

 この『アップルゲイツ』は、典型的なアメリカン・ファミリーのイメージから次々とほころびがあらわれ、ぼろぼろになっていく過程を描くことによって“普通”であることを風刺しているという意味で、ジョン・ウォーターズの『ポリエステル』を思い出させる。そして『アップルゲイツ』の場合には、そうした風刺精神が特殊メイクを駆使したポップでグロテスクなイメージと結びついていくところに、ウォーターズよりも新しい世代の感性があらわれている。
=====>2ページに続く


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