第25章 90年代を予感させる歪んだ郊外のイメージ
――『ヘザース』、『アップルゲイツ』、『シザーハンズ』、A・M・ホームズ、『パパの原発』


ヘザース・ベロニカの熱い日/Heathers―――――――――― 1989年/アメリカ/カラー/103分/ヴィスタ
アップルゲイツ/Meet the Applegates―――――――――― 1990年/アメリカ/カラー/90分/ドルビー
シザーハンズ/Edward Scissorhands――――――――――― 1990年/アメリカ/カラー/98分/ヴィスタ/ドルビーSR
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(初出:東京書籍刊『サバービアの憂鬱』、1993年、若干の加筆)
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■■郊外で孤立するティーンの心象風景――『シザーハンズ』■■

 日本でも話題になったティム・バートン監督の『シザーハンズ』では、80年代の郊外の状況やそこから生みだされたたくさんのイメージが、明らかにトラウマをかかえているこの監督の感性によって再構築され、これまでにない独創的な世界が切りひらかれている。

 ファンタジー仕立てのプロローグが終わってまずこの映画から浮かび上がってくるのは、物語の舞台になる郊外住宅地の光景である。この住宅地にある家はすべて、ブルーやピンク、イエローなどのパステル・カラーで統一されている。そして、この町が異様なほど明るく、しかも見通しがいいのは、色の効果ばかりでなく、意識的に日陰が最小限になるように撮影されているためだろう。あるいは、影が薄くなるような映像の処理をしているのかもしれない。

 そして、さらに愕然としてしまうのは、このあまりにも明るい町のはずれの丘の上に、まるでタイムスリップでもしたかのように、ゴシックの世界を思わせる古びた屋敷が建っていることだ。しかもそこには、奇妙なレザー・ファッションに身を包み、手がはさみででてきている少年エドワード(ジョニー・デップ)が、ひとりで暮らしている。

 この強烈な光と深い闇のイメージが結びつく世界は、郊外の少年の心象風景が投影されているとみていいだろう。この屋敷は、影が見あたらない郊外に暮らす少年が、想像上の世界に築きあげた影の世界であり、さらに郊外のなかにぽつんと残された秘密の隠れ家を象徴しているのかもしれない。

 ロス郊外にあるバーバンクで育った監督のバートンは、この映画についてこんなふうに語っている。

「この映画は、ぼくの育った映画の都バーバンクの想い出がいっぱいつまっているし、ぼく自身、ナーバスになっている理由は、これまでのどんな作品よりもこの映画には特別な意味があるからだ。これまで、ぼくは自分の感情を完全に表現する機会を一度も与えられたことはなかった。この映画は、映像で自己確認を初めてやれた作品だった」(『シザーハンズ』プレス資料より引用)

 ある意味でバートンの分身ともいえるエドワードは、このパステル・カラーの町に暮らし、“エイボン・レディ”の仕事をする人の好い主婦によって光の世界に連れだされる。

 監督のバートンは、町に出たエドワードのドラマを通して、郊外の世界というものを見事に描きだしている。

 エイボン・レディが奇妙な姿をした少年といっしょにいるのを目撃したとたん、退屈な主婦たちの噂のネットワークが活発に動きだす。エイボン・レディの家の留守電に好奇心丸出しのメッセージが次々と舞いこみ、果ては集団で押しかけてくる。そして、とりあえずコミュニティに迎えいれられたエドワードは、住民たちの好奇の眼差しのなかで、芸術的な植木職人、犬のドレッサー、果ては主婦たちのヘア・ドレッサーへと出世し、スターにまつりあげられていく。

 これは、一見するとユーモラスで喜ばしい光景のようにみえるが、皮肉なのは住民たちが誰ひとりとして“なぜ手がハサミなのか”という疑問を持つこともなく、ハサミを“立派な”特技にまつりあげてしまうことだ。ということは、誰も自分の目で本当にエドワードを見てはいないということである。そこで、特技であるはずのハサミに、ひとたび危険なものというレッテルが貼られてしまえば、ハサミしか見えない住人の態度は豹変することになる。

 
―シザーハンズ―


◆スタッフ◆

監督/原案/製作   ティム・バートン
Tim Burton
原案/脚本 キャロライン・トンプソン
Caroline Thompson
撮影 ステファン・チャプスキー
Stefan Czapsky
編集 リチャード・ハルシー
Richard Halsey
音楽 ダニー・エルフマン
Danny Elfman

◆キャスト◆

エドワード・シザーハンズ   ジョニー・デップ
Johnny Depp
キム ウィノナ・ライダー
Winona Ryder
ペグ ダイアン・ウィースト
Dianne Wiest
ジム アンソニー・マイケル・ホール
Anthony Michael Hall
ジョイス キャシー・ベイカー
Kathy Baker
ビル アラン・アーキン
Alan Arkin
ケヴィン ロバート・オリヴェリ
Robert Oliveri
発明家 ヴィンセント・プライス
Vincent Price
(配給:20世紀フォックス)
 
 
 

 そしてまたこの映画のストーリーには、郊外のティーンの世界におけるスポーツ選手とコミュニティを逸脱したティーンの対立関係も埋めこまれている。この映画で、エドワードをコミュニティから孤立する立場に追いやるのは、エドワードがひそかに好意を寄せるヒロイン、キム(ウィノナ・ライダー)のボーイフレンドで、スポーツ選手のジムであるからだ。

 バートンはこのジムのキャラクターについて、こんなふうに語っている。

「アンソニー・マイケル・ホール扮するジムは、ハイスクールで誰もが知っているタイプの男だ。ぼくはいつもこの種のヤツに恐怖を感じていた。だって、いつもヤツらにはガールフレンドがいるんだ。どうしてそうなのかというと、ヤツらはフットボールのキャプテンみたいで、アメリカン・ドリームの若者版みたいなイメージがあるからだ。それでいてヤツらは恐ろしげだし、暴力的だ。女の子たちは、そのイメージに反応し、無意識に彼らに乱暴されたいなんて願望を持っているんだ」(前掲資料より引用)

 いささか感情的な発言ともとれるが、前章で取り上げたグレン・リッジの事件を伝える記事のなかで、ジョシュとその仲間たちがバートンとそっくりな発言をしていたのが印象的だ。彼らの言葉によれば、ハイスクールのなかで、スポーツ選手のグループと他のグループとを大きく隔てているのはセックスだという。スポーツ選手のグループは、ガールフレンドに困ることがないばかりか、グループのメンバーやクラスの男友だちをパーティに誘い、彼らをクロゼットやベッドの下に隠れさせ、女の子を連れこんでセックスし、それを覗かせることをゲームのように楽しんでいたという。ジョシュと仲間たちが、スポーツ選手たちの行為が公になるのにひと役買った背景には、そうした感情的な反発もあったにちがいない。

 そして、『シザーハンズ』のドラマで、エドワードとジムの運命が最後までもつれるのも、バートンだけに限らない郊外のティーンの感情の反映とみることができる。

 エドワードの存在は、おとぎ話的な設定も手伝ってきわめてユニークなキャラクターのようにみえるが、そういう意味では、実は現代のアメリカ郊外のティーン以外の何者でもない。それは、ウィノナ・ライダーという女優の存在感にもあてはまる。

 ジョニー・デップのキャリアを振り返ると、まずロック・シンガーから俳優に転向。映画でデビューを飾った作品が『エルム街の悪夢』である。そして、主役の座を射止めたのが、ウォーターズの『クライ・ベイビー』で、それからこの『シザーハンズ』に主演ということになる。

 一方、ウィノナ・ライダーはもっとたくさんの映画に出演しているが、やはり『ヘザース』のマイケル・レーマンやティム・バートンという明らかに新しい世代の感性を持った監督の作品でその個性を発揮していることが印象に残る。バートンが監督した『ビートルジュース』(88年)では、ウィノナ・ライダーは、いつも黒い服を着て、両親との対話をさりげなく拒み、自分のまわりに壁をつくってひどく醒めた目で世界を見ていたが、あのキャラクターは、『シザーハンズ』のエドワードに通じる現代の等身大のティーンを表現しているのではないかと思う。その『ビートルジュース』に比べると、『シザーハンズ』のウィノナ・ライダーは、明るく健康的なティーンを演じているが、そのことについてバートンは、「これまでいつも影のある役をやらされてきた彼女だが、ぼくは一度チアリーダーの服を着た彼女をみたかった」と語っている。

 第14章で触れたブラット・パックが、保守化に向かう時代のティーンを代表しているとするならば、彼らは、保守化した状況のなかから生まれてきた最も新しいティーンを代表しているのだ。

 監督のバートンについては、郊外育ちであること、映画少年だったこと、作家としての独創性と大衆性、そして特に『シザーハンズ』では郊外の世界を斬新なセンスでとらえていることなどから、やはりスティーヴン・スピルバーグと対比してみたくなる。

 序章でも書いたように、スピルバーグは、郊外住宅地の夜空に赤や青の光を放つUFOを飛ばしたり、宇宙からやって来たE・Tの視点に立って、郊外住宅地を無数の光のパノラマとして描きだすことによって、ありふれた風景をあらためて“郊外の世界”として意識させるインパクトをもたらした。『シザーハンズ』もまた、新しい世代の映像魔術で、見事に郊外の世界の再認識をうながしている。そして、ふたりが描きだす郊外のイメージのあいだには、間違いなく『エルム街の悪夢』やデイヴィッド・リンチの世界が介在しているとみていいだろう。

 ところで、スピルバーグとバートンは、郊外とは無縁の世界を描く場合でも、まるで自分の部屋のなかに閉じこもって、頭のなかで想像が限りなく広がっていくような作品をよくつくっている。要するに、それぞれの映画の世界が完全に閉じた空間でありながら、その空間は巨大な広がりを感じさせるということだ。たとえば、スピルバーグでいえば『フック』や『ジュラシック・パーク』(これはまさしくテーマ・パークを舞台にしている)であり、バートンなら『バットマン』のシリーズである。

 そして、ふたりの閉じた空間を比べてみると、スピルバーグが、ファンタジーであろうがアクションであろうが自然とリアリティや臨場感にこだわっていくのに対して、バートンの世界が、ポップでありながら、暗く偏執的な妄想を思わせるところに、このふたりの郊外の子供の世代の違いがくっきりとあらわれているのだ。====>3ページに続く


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