第25章 90年代を予感させる歪んだ郊外のイメージ
――『ヘザース』、『アップルゲイツ』、『シザーハンズ』、A・M・ホームズ、『パパの原発』


ヘザース・ベロニカの熱い日/Heathers―――――――――― 1989年/アメリカ/カラー/103分/ヴィスタ
アップルゲイツ/Meet the Applegates―――――――――― 1990年/アメリカ/カラー/90分/ドルビー
シザーハンズ/Edward Scissorhands――――――――――― 1990年/アメリカ/カラー/98分/ヴィスタ/ドルビーSR
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(初出:東京書籍刊『サバービアの憂鬱』、1993年、若干の加筆)
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■■チーヴァー+リンチ=ホームズ『The Safety of Objects』■■

 若手の女性作家A・M・ホームズについては、第23章で『Jack』を紹介したが、ここでは彼女の短編集『The Safety of Object』(90年)を取り上げる。

 デイヴィッド・レーヴィットは、この短編集の推薦文のなかで、ホームズの世界を「ジョン・チーヴァーとデイヴィッド・リンチを足して二で割った世界」というように表現していたが、確かに彼女の作品はそうした特徴を備えている。

 つまり、一方で彼女は、チーヴァーやミニマリズムの系譜に属するかのように、郊外の中流家庭の日常を題材にしている。ちなみに、彼女が育ったのは、ワシントンDC郊外の町チェヴィ・チェイスである。しかしもう一方で、彼女が描く日常から浮かび上がってくるのは、リンチも含めて、いまレーマンやバートンの作品を通してみてきたようなポップ、シュール、グロテスク、ブラック・ユーモア、エロティック、倒錯的、自閉的、偏執的といった形容がふさわしいイメージなのである。

 たとえば、「Esther in the Night」という短編をみてみよう。これは、郊外の主婦エスターを語り手に、現実とも妄想ともつかない境界線上につづられていく物語である。

 真夜中に彼女は、家に強盗が入ることを思い描いてみる。想像のなかで、彼女は仕方なく強盗の指図に従っている。家のなかを見まわす強盗は、夜中なのに明かりが煌々と灯っている部屋(ドアにはモトリー・クルーのポスターが貼ってある)のことを尋ねるが、彼女は誰もいないという。その言葉が信じられない強盗は、部屋のなかを確かめてみる。そこには、ベッドのうえでチューブをさしこまれ、体がねじまがった若者が、開いた目を中空に向けたまま横たわっている。強盗はそれを見て、何も盗まずに逃げていく。

 
《データ》
 
safety of objects
The Safety of Objects
by A. M. Homes●
(Vintage Contemporary, 1990)
 
『パパの原発』 マーク・レイドロー●
友枝康子訳(早川文庫、1988年)
 

 
 
 

 これは、読者を物語の設定に導くホームズ流のイントロである。実は彼女の息子は、クルマの事故で植物人間になってしまったのだ。それでは、なぜ夜中でも明かりが灯っているのかといえば、その窓の明かりを外から見た彼女は、心のなかでまるでクリスマスを向かえる郊外住宅地の飾り窓のようだと思うのだが、その直後に突然、こんな文章が飛びだしてくる。

 現代死者博物館。二十四時間営業で年中無休、入場料は一般五ドル、学生三ドル、高齢者、五歳以下の子供、および身障者は無料。さあ、ひとりでも大勢でも、この植物人間のふるさとに来て、一日をわたしと過ごしましょう。きっと一生の思い出になることでしょう。

 というわけで、実はこの主婦は、郊外住宅で博物館を経営している。しかも、友人のディナー・パーティから帰宅したときに息子の事故の連絡を受けた彼女は、そのときに着ていたドレスで来館する人々を迎え、彼女の家庭に何が起こったのかを細かく説明するというサービスぶりなのである。これだけ書いても、郊外の中流家庭を描くとはいえ、かなりユニークなセンスを持った作家であることがおわかりいただけるだろう。

 また、このホームズの短編集では、郊外の子供たちを主人公にした作品が目立っている。

 たとえば、「A Real Doll」は、主人公の少年が、妹の持っているバービー人形と恋に落ちるというちょっと倒錯的な物語である。主人公の少年は、(バービー人形と対の人形である)ケンの様子をうかがいながら、バービー人形を妹の部屋から連れだし、ヴァリウム入りのダイエット・コークを彼女に飲ませて、デート気分にひたる。

 ただし、そんな主人公の妄想的な世界が描かれるだけなら、この短編はそれほど興味をひかないが、読者はこの主人公とバービーの秘密のデートを通して、表からは見えない彼の妹の影とか歪みをかいま見ることになる。しかも、主人公がそれに対して予想もつかない反応をしめすというように、バービー人形に対する少年の倒錯的な感情を描くところから、さらに物語が広がっていくのだ。

 ある日、主人公が妹の部屋に忍びこむと、バービーとケンの首と胴体がすげかえられている。そこで主人公が、ケンの胴体に乗ったバービーの首に話しかけようとすると、首がぽとりと落ちてしまう。そのことに嫌悪感をもよおした彼は、ケンの胴体の首の穴にペニスを突っこみ、マスターベーションに耽る。それからケンの胴体のなかを妹の歯ブラシで洗って、もとに戻す。こういった展開は、単純なようでもあるし、複雑な意味も感じるし、グロテスクだが、思わず笑いがでるといった具合で、ホームズならではの個性が発揮されている。

 そして、主人公がまたあらためてバービーに会いにいくと、今度はバービーの体にナイフの傷や火を押しつけた跡があった、というように妹の世界もクローズアップされていく。この短編は映画化権が売れているということだが、いったいどんな映画になるのだろうか。

 それから、やはり郊外の子供を描いた「Slumber Party」もシュールで、独特の奇妙なエロティシズムが漂っている。このタイトルは、ティーンの女の子たちが誰かの家に集まって、パジャマ姿ではしゃぐいわゆる“パジャマ・パーティ”のことを意味しているが、物語の内容を知ると、これがずいぶんとぼけたタイトルであることがわかる。

 この短編は簡単にいってしまえば、隣人の家からテレビやラジオを盗みだしたティーンの二人組と、まったく別にお医者さんごっこをやっていた10歳と11歳のカップルが、真夜中に郊外住宅の庭先で鉢合わせをするという物語なのである。テレビやラジオを抱えた二人組のティーンと素っ裸の子供のカップルが、静まりかえった郊外の芝生のうえで無言で対面している光景は、何ともシュールだが、これがパジャマ・パーティということになるのだ。

 そしていかにもホームズらしいのは、こんな場面で10歳の女の子が、ボーイフレンドのペニスの様子をひそかに観察しているところだろう。そのペニスは、ふたりで裸で外に出たときには興奮でいっそう硬くなり、ティーンの二人組の片方から煙草を黙ってさしだされるとすこし萎んだように見え、そのティーンが女の子の体に触れるとまた硬くそそり立つのだ。

 ホームズの描く郊外の子供たちは、自分の殻に閉じこもり、どこか歪みがあるが、彼女はそれを奇妙なユーモアとイメージで描いてしまう。

 両親が離婚し、母子家庭に暮らす「Looking for Johnny」の主人公の少年は、ある日、見知らぬ男に誘拐されてしまうのだが、男といっしょにいるうちに父親が家にいた時代を思い出し、犯人のほうが手を焼くことになる。「Chunky in Heat」では、ティーンの娘が、自分の家の裏庭で、隣人が覗いていることを想像しながらマスターベーションに耽っている。「The I of It」の主人公の少年は、女ばかりの家族のなかに暮らすうちに、自分のペニスに独特な愛情を抱くようになり、「Yours Truly」の主人公の少女は、クロゼットのなかにこもって、自分に宛ててせっせと手紙を書いている。

 こうしてみてくると、ホームズが、レーマンやバートンと共通するような感性を持ち合わせているのがおわかりいただけるだろう。そして、彼らが描く郊外の世界やティーンの姿は、90年代の予感でもあるのだ。

■■要塞化したエッジ・シティに見る80年代――『パパの原発』■■

 それでは、本章の最後に、1998年の郊外の様子をすこしだけ覗いてみることにしよう。といっても、これは実はSFの世界の話である。マーク・レイドローの『パパの原発』(85年)は、SF小説のなかでは珍しく、風刺SFのスタイルで郊外の生活を描いている。もちろん、風刺SFということは、時代は未来に設定されていても、視点は現代に向けられているわけだ。この小説では、核家族とコミュニティの理想を、天までとどくほど高く掲げている住人たちの世界が、ブラック・ユーモアの連発で描かれている。

 時代は1998年。小説の舞台となる郊外住宅地の住人たちは、町の周囲に防御システムの壁をめぐらし、よそ者を排除して理想の町づくりに励んでいる。特に主人公のジョンソン一家とそのお隣のスミス一家は、それぞれのパパが“コミュニティ防衛の新時代”を目指して、ライバル意識をむき出しにしている。そして、スミスが庭に巨大なミサイルを設置すると、ジョンソンは原子力発電装置を自宅に設置する準備を進める、といった具合に話はエスカレートしていく。

 その一方でジョンソンは、もちろん核家族の理想に燃えている。彼が暮らすこの町は、「ともに生き、ともに遊び、ともに住む」ことができる、いわば究極のエッジ・シティである。そんな町の構造を彼はこんなふうに振り返る。

 それはアメリカの夢を取り戻すチャンスだった――テロリスト、シンジケート、社会改革などに踏み潰されて、こっぱみじんに消えた夢を。当時の世界は、そのなかで家族を育てたいと望めるような社会ではなかった。しかし壁ひとつ越えたこの街には、平安と、豊かさと、低価格の住宅、最高の教育用ソフト、街自体の健康管理制度があった。

 実にいいことずくめのようだが、このアメリカの夢にはかなり危ないものがある。というのも、ジョンソンの息子のひとりは、家庭が丸くおさまるようにというママの強い希望で、赤ん坊のときからゲイになるようにプログラミングされている。ゲイ小説をとりあげた第23章には、息子が親にゲイであることを告白するシチュエーションが何度か出てきたが、この小説では、皮肉な逆告白の場面が出てくることになる。そして、ショックを受けた息子は、コミュニティを飛びだし、そこから家族の亀裂が深まっていくことになる。

 また、この町では、各家庭の生活がビデオに撮られて、テレビで放映されたり、巷では倦怠を解消するために、夫婦が両性の快感を味わうことができる肛門の手術が流行になっていたり、赤ちゃんが手軽にオーブンでできたりと、様々なかたちでコミュニティ精神や郊外の消費生活がカリカチュアされている。一方、町の壁の外では、電子武装したキリスト教勢力が猛威をふるっているといった設定も、この小説のひとつの大きなポイントになっている。

 この『パパの原発』は、これまで取り上げた作品とはまったく違う角度から、保守化した80年代のアメリカが見えてくる興味深い作品なのである。


(upload:2010/09/03)
 
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