第26章 コミュニティの理想と個人の希望のはざまで
――『トラスト・ミー』、『パブリック・アクセス』


トラスト・ミー/Trust―――――――――――――――――― 1990年/アメリカ/カラー/106分/ヴィスタ
パブリック・アクセス/Public Access――――――――――― 1993年/アメリカ/カラー/87分
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(初出:東京書籍刊『サバービアの憂鬱』、1993年、若干の加筆)
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 50年代から始めたアメリカの郊外の探訪もいよいよ本章で最後ということになる。

 本章ではまとめの意味もこめて、二本の映画を取り上げたいと思う。その映画はどちらも90年以降に発表された作品で、郊外住宅地(あるいはスモールタウン)という小さなコミュニティをアメリカの縮図としてとらえ、そこから普遍的なテーマをみちびきだしている。

 もちろんそれは、これまで取り上げてきた作品にも当てはまることだが、要するにホラーでもファンタジーでも風刺でもなく、環境や家族の変化をとらえた新しいイメージがあるというわけでもなく、何よりもまず平均的なアメリカをありのままに見ることから出発しているということである。

 また、この二本の映画は、まったくタイプの違う作品でありながら、テーマや作品から浮かび上がるイメージに共通点が多いこと、結末が対照的であることから、まるでコインの裏表のように見えるのが面白い。

■■外見の清潔さではなく、おたがいを信じる―『トラスト・ミー』■■

 最初に取り上げるのは、ニューヨーク・インディーズの新鋭監督ハル・ハートリーの作品『トラスト・ミー』(90年)である。

 これは、それぞれに平凡な中流家庭のなかで、信じられるものを見失ってしまった若い男女を主人公にしたラヴ・ストーリーだが、主人公たちをとりまく家庭、郊外の日常が、独自の視点でとてもリアルに描かれている。

 この映画のなかで、最初は冴えないように見えるふたりの主人公たちがしだいに魅力的な存在へと変わっていくのは、彼らと物語の背景になる郊外の世界とのコントラストがはっきりしていくからだといってもいい。監督のハートリーは、登場人物たちの背景の説明といったものを大胆に省略する一方で、郊外のライフスタイルの画一的なイメージを、笑いをさそうようなユーモアで強調してみせる。主人公たちの魅力は、その画一的なイメージからはみだし、さまよいだすように浮き彫りにされていくのである。

 
―トラスト・ミー―


◆スタッフ◆

監督/脚本   ハル・ハートリー
Hal Hartley
撮影 マイケル・スピラー
Michael Spiller
編集 ニック・ゴメス
Nick Gomez
音楽 フィル・リード
Philip Reed

◆キャスト◆

マリア   エイドリアン・シェリー
Adrienne Shelly
マシュー マーティン・ドノヴァン
Martin Donovan
ジーン メリット・ネルソン
Merritt Nelson
ジム ジョン・A・マッケイ
John MacKay
ペグ イーディ・ファルコ
Edie Falco
レイチェル スザンヌ・コストロス
Suzanne Costollos
(配給:フランス映画社)
 
 
 

 映画の舞台になるのは、ロング・アイランドの郊外の町だ。ふたりの主人公の家庭は、どちらももめている。

 主人公のひとり、16歳のマリアは、ハイスクールを中退し、しかも妊娠していることが両親の知るところとなる。映画は、怒った父親が彼女に罵声を浴びせる場面から始まる。マリアは、怒鳴る父親に平手打ちをみまい、父親は驚きのあまり心臓発作を起こして昇天してしまう。そればかりか、お腹の子供の父親であるボーイフレンド(ちなみにハイスクールのスポーツ選手である)にふられたあげく、母親に家を追いだされてしまう。

 もうひとりの主人公、コンピュータ技師のマシューは、父親とのふたり暮らしである。彼はふだんから父親との関係がかんばしくないところにもってきて、勤めていたテレビの製造工場を父親にひと言の相談もなく唐突に辞めてしまったとあって、こちらも親子がもめている。

 そこで、それぞれに信じられるものを見失ったふたりが、偶然出会うことになる。普通の映画だとこのような設定から、家庭や個人的な背景が明らかにされていくところだが、先ほど書いたようにハートリーは、そうした説明はあっさりと省略してしまう。そのかわりに、ふたりがさまようことになる郊外の世界を、独特のユーモアを散りばめ、印象的に描いていくのだ。

 たとえば、この映画には、主人公たちが奇妙ななりゆきで人捜しをするはめになるという展開が盛りこまれているが、そのドラマからは郊外の世界というものがくっきりと浮かび上がってくる。

 ふたりが捜す人物は、家を追いだされたマリアが町で偶然、言葉をかわすことになった中年女性である。マリアは、ふたりが話をした後で、彼らのそばに置かれたベビーカーから赤ん坊が盗まれるという事件が起こったことを知る。そして、中年女性が子供がいなくて寂しいという話をしていたことを思い出すのだ。

 ところがマリアは、その女性について、レイチェルという名前以外、住所も電話番号も何も知らない。手がかりは、彼女の話に出てきた夫の話題だけだ。マリアは、夫が毎日5時15分の列車で帰ってくること、彼を識別するいくつかの特徴、休暇の話などを記憶していた。

 そこでふたりは、駅の出口に立って、5時15分の列車から降りてくる男たちを待ちうける。ところが、仕事を終えて郊外の駅に降りたつ男たちは、パイプや眼鏡といった特徴が意味をなさないくらいみな同じ格好をしている。しかたなく駅前に駐車したクルマを調べだしたふたりは、あるクルマに、中年女性の話に出てきた避暑地のステッカーが貼られているのを見て狂喜する。しかし、まわりを見るとどのクルマにもまったく同じステッカーが貼られているのだ。

 これはもちろん、画一的なライフスタイルのなかで男たちが無個性化していることを、ユーモラスな誇張によって物語っている。ハートリーはこのように、日常を一瞬だけ別の観点からかいま見るような巧みな表現を使って、ありふれた郊外の風景から奇妙なリアリティを引き出しているのである。

 あるいは、映画のなかで主人公のマシューは極端なテレビ嫌いという設定になっているが、これもまた郊外の世界を映しだす鏡になっている。テレビの製造工場を辞めたマシューは、父親の紹介で町の電気屋を訪ねるが、仕事がテレビの修理と聞いて、逃げるように店を出る。そこで彼が目の当たりにするのは、壊れたテレビをかかえて、店の入口から長蛇の列をつくる人々の姿なのである。もはや説明の必要もないだろうが、この誇張された光景からもリアリティがにじみだしてくる。

 そして、映画の背景にこうした画一的な郊外のリアリティが積みあげられていくにしたがって、ふたりの主人公の個性が浮き上がってくるのである。

 ハートリーが引きだすこうしたリアリティのなかで、筆者がいちばん印象に残っているのは、清潔な家のイメージだ。

 たとえば、マシューの父親は、家で息子と顔をあわせるたびにトイレの掃除を命じる。そのトイレはといえば、頻繁に掃除しているらしく、すでにピカピカに光っている。しかし、それでも父親は息子にトイレの掃除を命じ、マシューはしかたなく、光るトイレを何度も掃除する。

 これだけのエピソードであれば、極端に潔癖症の父親ということになるかもしれないが、ハートリーは、映画全体に清潔な家に対するこだわりを散りばめている。

 マリアが町で出会った中年女性は、郊外の生活に疲れはてた気持ちを、家がいつも清潔であることが虚しくて、もっと汚れていればいいと思うことがあるという言葉で表現する。また、マシューの家にころがりこんだマリアが、異様に清潔なキッチンを無頓着に汚してしまう場面では、ひとつひとつの汚れにピリピリとした緊張感が漂っている。

 こうした場面を見ながらすぐに筆者の頭に思い浮かんできたのは、第13章で取り上げたデイヴィッド・レーヴィットの『ファミリー・ダンシング』に収められた短編「犠牲者」のことだ。この作品のなかで、郊外の生活を目指していた家族がばらばらになってしまったとき、父親は息子にこう語るのだ。

「間違っても外見の清潔さなんて信用するんじゃない。悪いことっていうのはな、本当に悪いことっていうのはな、いつだって、なにもかもがきれいに片づいていて、住んでいる人間が朝の挨拶ぐらいしかしないきれいな家で起きるものなんだ」

 『トラスト・ミー』の舞台になっているロング・アイランドの郊外の町では、まさにこの言葉にあるようなことが起こっているのだ。

 監督のハートリーはそのロング・アイランドの出身であり、こうした郊外の世界に対する鋭い視点は、個人的な体験とも無縁ではないはずだ。

 ただし、ハートリーが描くのは、郊外の特別な家庭ではない。彼が映画のなかで登場人物たちの背景を省略しているのは、郊外のどんな家庭にもあてはまるドラマをつくろうとしているからだ。こうした設定について、ハートリー自身はこんなふうに語っている。

「個性も特色もない平均的なアメリカというものに対する私なりの思いから出発しながらも、主題は普遍的であってほしいと思ってましたから、主人公たちの情熱的な闘いが展開するには、灰色で大した価値もない、理想もない世界が舞台としてふさわしいと思ったのです。主人公たちには理想があり、それが彼らを周囲から浮かび上がらせる」(『トラスト・ミー』プレス資料より引用)

 ハートリーは主人公たちに理想があるというが、彼らは決してはっきりとした理想を持っているわけではない。しかも彼らは、あまりにも非力な存在のようにすら見える。にもかかわらず、ささやかだが間違いなく“希望”を感じさせるのは、背景となる郊外の世界のリアリティが、彼らの存在を浮き彫りにするからだ。それゆえに、彼らが、テレビや清潔な家ではなく、おたがいを信じようと努めることが、妙に魅力的に見えてくるのである。
=====>2ページに続く


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