第26章 コミュニティの理想と個人の希望のはざまで
――『トラスト・ミー』、『パブリック・アクセス』


トラスト・ミー/Trust――――――――――――――― 1990年/アメリカ/カラー/106分/ヴィスタ
パブリック・アクセス/Public Access―――――――― 1993年/アメリカ/カラー/87分/ドルビーステレオ
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(初出:東京書籍刊『サバービアの憂鬱』、1993年、若干の加筆)
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■■コミュニティを支配する謎の男――『パブリック・アクセス』■■

 そしても一本の映画は、ブライアン・シンガーという新人監督がつくった『パブリック・アクセス』(93年)である。この映画は、冒頭でもすこし触れたように、『トラスト・ミー』とはまったくタイプの違う作品で、サスペンスやスリラーの要素が盛りこまれている。

 この映画の舞台になるのは、具体的な場所に関する説明はないが、幹線道路沿いにあり、自然に囲まれたのどかなスモールタウンである。映画の冒頭でカメラは、すっきりと美しく整備された街路やこぎれいな家並み、公園で遊ぶ子供などを映しだす。町の風景は平和そのものに見える。

 物語は、この平和なブルースターの町に、ワイリー・プリッチャーという正体不明の男がやって来るところから始まる。彼は町のケーブル・テレビの放送局を訪れ、毎週日曜日夜7時からという“ファミリー・アワー”の時間帯を買いとり、住民が誰でも電話参加できる番組を開設する。「我らが町」というのがその番組のタイトルだ。

 そして、テレビカメラの前に座った彼は、大胆にも「この町の欠点は何か?」というテーマを掲げる。つまり、テレビと電話というメディアを利用して、一見するとひとつにまとまっているようにみえるコミュニティの壁をくぐりぬけ、個人個人に向かって挑発的な質問をぶつけるのである。このコミュニティが個人の集合体に変わる一瞬には、はっとさせられるようなインパクトがある。

 一方、これを住人の側からみた場合には、求心力を欠いたコミュニティのなかに、突然新たな中心が出現し、しかもその中心は、やり方によっては、個人を表現したり、主張する場ともなりうるということになる。

 そこで、住民からどのような反応が来るかというと、まず匿名の主婦が、隣人に対する苦情をぶちまける。それと同時に、町の主婦たちが、電話の主の正体をつきとめようとおたがいに電話をかけまくり、また番組に苦情に対する応戦の電話が入るというように、町のネットワークが活発化していくのだ。そうなると番組のホスト、謎の男ワイリー・プリッチャーは、テレビ伝道師の影響力を逆手にとった新しいタイプの伝道師のようにもみえてくる。

 
―パブリック・アクセス―


◆スタッフ◆

監督/脚本   ブライアン・シンガー
Bryan Singer
脚本 ミシェル・フェイト・ドゥガン、クリストファー・マックァリー
Michael Feit Dougan, Christopher McQuarrie
撮影 ブルース・ダグラス・ジョンソン
Bruce Douglas Johnson
編集 ジョン・オットマン
John Ottman
音楽 ジョン・オットマン
John Ottman

◆キャスト◆

ワイリー・プリッチャー   ロン・マークエット
Ron Marquette
レイチェル ディナ・ブルックス
Dina Brooks
ボブ・ホッジス バート・ウィリアムズ
Burt Williams
ジェフ・アバナシー ラリー・マクスウェル
Larry Maxwell
ケヴィン・ハーヴィー ブランドン・ボイス
Brandon Boyce
ブレイヤー市長 チャールズ・カヴァナー
Charles Kavanaugh
(配給:アスク講談社)

 この映画からは、そんなワイリーの存在を通して、単純な苦情だけではなく、コミュニティの問題やその影にひそむ感情が浮かび上がってくる。たとえば、50年代にこの町の町長だった老人は、この番組にゲストとして出演し、町の欠点は個人のプライドが失われ、住民がみんな歯車のひとつになってしまったことだと発言する。

 さらに興味深いのは、路上で町のヒーローになりつつあるワイリーを見かけ、彼にくってかかるティーンの発言である。そのティーンはほとんど泥酔に近い状態で、ワイリーに向かってこんな言葉をはきちらす。

「どうしてこうなったか、レーガンさ。俺たちの親は、何でも信じた。読んだり聞いたりしたことを、全部信じた。ひどい目にあって、ようやく考えなおした。政府や新聞やボスたちが、嘘をついていたことを知ると、一斉に反発したよ、それが当たり前だ。だけどみんな、年をとって疲れてる。争いを好まない。愚かで幸せだった昔が懐かしくなって、また何でも信じはじめた。俺たちも危ないよ」

 いうまでもなく彼は、行き場を失い、酒でうさをはらすしかないレーガン時代のティーンである。

 しかしこのコミュニティからは、住民の知らない、もっと切迫した問題が浮かび上がってくる。現町長は、貯蓄組合の金(つまり住民の金だ)を勝手に町の産業を支える企業に融資していたが、その企業はいままさに潰れようとしていたのだ。町の財政は崩壊寸前のところにあった。その事実を知ったワイリーは、問題を公にしようとしている教授と対面する。

 ところが、この映画の本当の恐ろしさが明らかになるのは、町の真実が見えてきた後のことだ。まず泥酔したティーンの死体が発見される。といえばもうおわかりだろう。謎の男ワイリーは、このコミュニティの理想に異議を唱えようとする個人を処分し、番組のゲストとなった現町長とにこやかに握手をかわし、町を去っていく。彼はいわば、コミュニティの反映されたアメリカの理想を象徴する存在なのだ。

 そしてこれが、『トラスト・ミー』とは対照的な結末ということだ。この二本の映画は、コミュニティの理想と個人の希望を描いているので、当然といえば当然だが、象徴的なイメージまで含めて共通する(あるいは見事に対照的な)部分が多くみられる。

 まず『トラスト・ミー』のマシューは、テレビを拒絶することで個人の希望を守ろうとする。一方『パブリック・アクセス』のワイリーは、テレビを最大限に利用することで、コミュニティのなかから異分子をあぶり出し、処分する。

 『パブリック・アクセス』には、ワイリーが、借りたアパートのバスタブを真剣な表情でみがくシーンが出てくる。『トラスト・ミー』のあの清潔にまつわるイメージがあるだけに、このシーンは妙に生々しくみえる。そしてもちろん、ワイリーは外見の清潔さを維持するほうの立場にいる。

 さらに眼鏡のイメージである。これはシンガー監督も認めていることだが、ワイリーは眼鏡をかけているかどうかで二重人格的に描かれている。眼鏡をかけているときは冷静なヒーローだが、異分子を血祭りにあげるときにはその眼鏡がない。『トラスト・ミー』のマリアは、恥ずかしがって眼鏡を隠していたが、マシューに似合うといわれてからよく眼鏡をかけるようになり、自暴自棄ではなく前を見るようになる。

 そして二本の映画の結末は対照的だと書いたが、映画が本当に意味するところはもっと複雑である。ワイリーは異分子を処分して、コミュニティの理想を守るが、このコミュニティは間もなく町を支える企業の倒産で崩壊することになる。『トラスト・ミー』は希望の映画だが、現実的には、テレビの製造工場にこもり、手榴弾で自爆しようとしたマシューは逮捕され、町から連行されていく。それでもマリアは、眼鏡をかけて彼を見送りつづけるのだが……。

 この二本の映画は、個人の希望が描かれていても、コミュニティの理想が描かれていても、その背景に目をこらせば、どちらの監督もいままさに硬直し、崩壊しつつあるコミュニティをとらえている。

 80年代の保守化は、ある意味ではアメリカ全体が50年代の価値観を見直す時代だったといえるわけだが、90年以降に発表されたこの二本の映画には、その後の現実をかいま見ることができるだろう。郊外のコミュニティに反映されたアメリカの理想は、いままさに大きな岐路に立たされているのだ。


(upload:2010/09/04)
 
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